谷崎潤一郎: 细雪(上) 二十五
first published:『中央公論』1943年1月号・3月号
audio: https://www.youtube.com/watch?v=yENCi-Qq93Y
desc: 在大阪船场坐拥百年老店、历史底蕴深厚的莳冈家,鹤子、幸子、雪子、妙子四姐妹交织出百态人情。小说如华美画卷,循着四季流转,细致描绘出昭和十年间关西上流社会的日常光景。
三女雪子是四姐妹中容貌最为出众之人,婚事却屡屡未果,年过三十依旧独身。幸子夫妇为此忧心不已、四处奔走,性格沉默寡言的雪子却对每一门亲事都无意应允,岁月便这般缓缓流逝。
悦子の神経衰弱は、鎮静剤として折々臭剥1を飲ませる外には食餌療法に依っていたが、脂っこい物でも支那料理なら好んで食べることが分って、栄養分を取るようにしたのと、冬になって脚気が直ったのと、学校の先生が学課の方を気にしないで健康を取り戻すように諭してくれたのと、いろいろのことが効を奏して案じた程でもなく良くなって行った。で、助け船を呼ぶ必要はなくなってしまった訳であったが、幸子は東京の話を聞いてからと云うもの、どうしても一度雪子の顔を見ないことには気持が治まらなくなっていた。
为了治疗悦子的神经衰弱症,除了时时让她服用镇静剂溴化钾之外,幸子还采用了饮食疗法。幸子发现,即使是油腻的食物做成中国菜,悦子也很喜欢吃,这使她多吸收了一些营养。到了冬天,悦子的脚气病也好了。学校的老师告诉她要注意恢复健康,不必担心功课。这样,由于各种措施奏效,她的病情渐渐好转,当然不必再求助于雪子了。但是,幸子自从听到东京的消息后,总觉得不见雪子一面心里就不踏实。
今になって考えると、あの、富永の叔母が掛合いに来た日、自分はあまりにも雪子に冷酷な仕打をし過ぎた、自分はああ云う風に命令的に、追い立てるようにすべきではなかった、妙子には二三箇月の猶予が与えられたのだから、雪子にも多少の時日を与えるように斡旋するくらいの情味があってもよかったのに、ゆっくり名残を惜しむだけの余裕も作ってやらなかった、それと云うのも、雪子がいないでもやって行けると云う意地っ張りが、あの日に限って妙に強く萌して来て、ついあんな態度に出たのであったが、それでも雪子が一言半句の不平も云わずに大人しく納得したのが、思い出すとしおらしくて、不憫でならない。………そして幸子は、雪子がわりに機嫌よく、ほんの当座の旅行のような身支度で気軽に出て行ったのは、直きに口実を拵えて呼んで上げるからと、あの時気休めに云ってやった言葉を、案外あてにしていたのであることが、今になると分って来たのであった。雪子にしてみれば、幸子のその言葉があったればこそ、それを頼みにして、一往本家の気が済むように東京まで附いて来たのであるのに、その後幸子の方で何の工作もしてくれている様子がないとしたら、………而も、附いて来たのは自分だけで、妙子の身柄はそう問題にされず、今以て関西に居残って暮しているとしたら、………自分一人馬鹿を見た、欺されたと思うのも尤もかも知れない。
现在想来,富永姑母前来说项的那天,自己对雪子的做法未免过于冷酷,不应该用那种命令似的口吻撵她走。既然妙子能够延期两三个月,自己也该有点人情味,帮雪子讲讲话,多少也给她一些宽限就好了。可是,竟然连从容惜别的时间都没有给她。特别是那天,她莫名其妙地产生了强烈的赌气的情绪,没有雪子我也干得了,结果采取了那样无情的态度;而雪子却一言半句牢骚也没发,温顺地听从了。现在回想起来,雪子真是又可爱又可怜……幸子现在才明白,当时雪子之所以情绪还不错,轻松得像是出去旅行似的拎着点行装就走了,正是因为她自己随口安慰了一句什么:过不多久就会找个借口叫你回来。雪子信以为真,为了使本家满意,就跟着他们去了东京。可是事后幸子却毫无动静了……而且只有自己一个人跟着去了东京,妙子却稳坐钓鱼台,到现在还留在关西逍遥自在地生活……幸子想,雪子自然会认为只有她一个人是傻瓜,上当受骗了。
………幸子は、姉がそんな気持になっているなら、本家の方は大して面倒はないとして、夫が何と云うか、今暫く見合せた方がよいと云うか、それとも、もう四箇月も立ったことだし、悦子も落ち着いて来たのであるから、十日や半月ぐらいの間なら呼び戻しても差支えないと云うか、まあ、春にでもなったら夫に相談を持ちかけてみようと思っていると、折よく正月の十日頃に、あれ以来何とも云って来なかった陣場夫人から手紙が来た。そして、去年写真をお送りした人の件はどうなったでしょうか、あの時のお話では、急には返事が出来ないけれども暫く待ってくれたらと云うことでしたので、お待ちしていたのでしたが、妹さんにお心持がおありにならないのでしょうか、もし御縁がないものなら、お手数ながらあの写真をお返し下されたく、又いくらかでもお心持が動いておられるなら、今からでも遅くはないのです、先方さんのことは、その後お調べになったかどうか知れませんが、大体あの写真の裏に本人さんが自分で書いておられる通りの経歴で、その外には申し上げる程のことはない、ただ一つあれに書き洩らしたのは、自分には財産と云うものは何もない、全く俸給に依って暮しているので、それはお含みを願いたいとのことです、そう云う訳で、妹さんには御不足であろうと存じますけれども、先方さんはお宅のことをすっかり調べておられ、妹さんの御器量なども何処かでお見かけしたらしくて、待つのはいくらでも待つから、是非あの方をと、浜田氏を通じて熱心に申し越しておられるのです、何にしても、一遍お会い下さると、私も浜田氏に対して顔が立つのですが、………と、そんな文面なのであったが、幸子には渡りに船であった。で、いつぞやの野村巳之吉と云う人の写真に、陣場夫人のこの手紙も添えて、こう云う話があるのですが如何ですか、陣場さんは兎に角見合いをさせることを急いでおられるようですが、雪子ちゃんはこの前のこともあり、調べを先にしてからでなければ会うのは厭だと云うでしょうから、宜しかったら私達の手で大至急調べますけれども、先ず兄さんや姉さんの考を聞かして下さい、と云ってやると、五六日過ぎて、姉にしては珍しいことに長い返事の手紙が来た。
幸子想,既然姐姐是这样一种心情,本家方面大概没有什么阻碍了,但不知丈夫的意见如何?也许贞之助会说“等一段时间为好”,或者说“既然已经过了四个月了,悦子也安定下来了,让雪子回来住上十天半个月也无妨”。幸子想,还是到开春以后再和丈夫商量商量吧。正巧在一月十号前后,一直没有消息的阵场夫人来信了,信中说:“去年曾寄上某人照片的那件事,究竟怎样了?当时您说不能很快答复,要求暂且等待一下,所以我们一直在等着。是不是令妹无意呢?如果没有缘分,麻烦您退还照片。如果多少有些意思,现在也还不迟。不知后来你们是否调查了对方的情况?大体上就是他本人在照片背面上写的那些情况,此外没有什么值得奉告。只是写漏了一点,他自己没有财产,全靠工薪维持生活,希望您理解这一点。因此,也许令妹有不尽满意之处,不过对方已将府上的情况全都调查清楚了,令妹的芳容他好像在何处看见过,所以他表示久等无妨,务望成全这段姻缘。这是他通过滨田先生热诚地提出来的。好歹要让他们见上一面,我在滨田先生面前才能保住面子……”这于幸子可谓雪中送炭。于是她写了一封信给姐姐,并随信寄去原来收到的野村巳之吉的照片和阵场夫人这封信。幸子在信中说:“这门亲事不知姐姐意下如何?阵场夫人似乎急着要让他们见面,因为有前车之鉴,雪子可能会说不先调查了解不愿意见面。因此,如果你们同意的话,可由我们尽快进行调查,但我们首先想听听姐夫和姐姐的意见。”过了五六天,姐姐极为罕见地写了一封长信寄来:
――― 拝復
おくれ馳せながら新年おめでとう存じます、そちら皆々様お揃いよきお正月をお迎えなされし由およろこび申します。此方は初めての土地にて何やら一向それらしい気分も味わず松の内2もあわただしく過してしまいました、東京と云うところは冬が取り分けしのぎにくいと聞いていましたが一日として名物のから風が吹かぬ日はなく寒に入ってからの寒さはまことに生れて始めてのことにて今朝などは手拭が凍って棒のようになりバリバリ音がするのですが、こんなことは大阪では経験がありません、東京も旧市内だといくらかしのぎよいそうですがこの辺は高台で郊外に近いので一層寒いのだそうです、お蔭で家内中順々に風邪を引き女中たちまで倒れる始末ですが私と雪子ちゃんだけはどうやら鼻風邪の程度で済んでいます、しかしこちらは大阪に比べると埃が少く空気の清潔なことは事実にて、その証拠には着物の裾がよごれません、此方で十日ばかり一つ着物を着通していましたけれども、わりに汚れませんでした。兄さんのワイシャツが大阪では三日で汚れますが、此方では四日間は大丈夫です。
さて雪子ちゃんの縁談のこと、いつもそちらでいろいろ心配して下すってほんとうに有難く思います、あの手紙と写真を早速兄さんに見せ相談しましたが、兄さんも近頃は心境が変化して前のようなうるさいことは云わず、大体あなた方に任せる気持になっているようです、ただ農学士で四十何歳になり水産技師をしているのではこの先そう月給が上る見込はないし、出世の道は止っているように思う、それで財産もなしに暮して行くのだと余り楽ではないだろうけれども、本人が承知なら兄さんは反対はしない、見合いも、本人の気が進んでいるならいつでも適当と思う時機にさせてくれて差支えないとのことです、ついては、もっとよく調べた上で見合いをさせるのが順序ですけれども、先方さんがそう云う希望なら、委しい調べは後廻しにして見合いを急ぐことにしたら如何でしょうか、多分貞之助さんから聞いてくれたことと思いますが、雪子ちゃんには私も手を焼いているので、何とか機会を拵えて一遍そちらへ行かしてやりたいと考えていたところなのです、昨日雪子ちゃんにも一寸話してみましたが、現金なもので、関西へ行けるとなったら見合いのことも直ぐ承知しました、そして今朝から急に元気づいてニコニコし出したのには、全く何と云う人だろうと呆れてしまいました。
そちらで大体日取りをきめて下されば此方はいつでも立たせてやります、見合いが済んだら四五日で帰ると云うことにしておきますけれども、多少のところは延びても構いません、兄さんにはよいように云っておきます。
東京へ来てからまだ一遍も手紙を上げなかったので書き出したら長くなりました、今も背中へ水を浴びせられるような寒さで筆を持つ手も凍えるようです、蘆屋は暖かいでしょうけれども何卒くれぐれも風邪を引かないようにして下さい。
貞之助さんによろしく
正月十八日
鶴子
幸子様
拜复
给你们拜个晚年!为你们合家团聚、欢度新年感到高兴!我们这里人地生疏,没感觉到多少新年的气氛,匆匆忙忙就过完了松之内。早就听说东京冬天特别寒冷难耐,没有一天不刮那有名的干风,三九之后更是严寒沁骨,真是有生以来第一次领教。今天早晨连毛巾都冻成棍子一样,咔吧咔吧直响,这在大阪是前所未见的。据说东京旧市区多少会好一点,而我们这一带地势高,邻近郊外,更加寒冷,全家人先后患了感冒,连女佣们都病倒了,唯独我和雪妹只是有点鼻塞,几天就好了。但是,这里与大阪相比,灰尘较少,空气清新,这也是事实。证据是衣服领子不易弄脏,一件衣可穿十天左右还不怎么脏。你姐夫的衬衣在大阪仅能穿三天,在这里可以穿上四天。
至于雪子的婚事,总是由你们操劳,实在感谢不尽。那封信和照片我马上给你姐夫看过并和他商量了。最近他的心境变了,不像以前那样说三道四了,大体上是听任你们处理。只是认为,一个农学士四十来岁还是个水产技师,以后估计不会增加工薪了,也无希望升迁,再加上没有什么财产,将来的生活不会富裕。但是,若雪子本人情愿,你姐夫也不反对。至于相亲之事,只要她本人有意,你们不妨安排个适当的时机,任何时候均可。本来依照先后顺序,应在详细调查以后再见面,不过,对方既然希望早日见面,那就把详细调查推迟到见面之后也行,你看如何呢?我想你大概已从贞之助那里听说了吧,对雪子我也束手无策,正在考虑找个机会让她上你那儿去一趟。昨天我也稍微试探了一下雪妹,她只顾眼前,听说能回关西,连相亲的事儿都马上答应了。今天早晨她突然精神焕发,满面春风,使我目瞪口呆,我完全不明白她是怎样一个人了。
只要你们大致把日子定下来,我这里随时叫她动身。我和她说了相亲完后四五天再回来,但是也可延迟几天,我会和你姐夫说好。
来东京后一直没给你写信,一写就拉长了。我现在也觉得背冷如凉水泼,拿笔的手也冻僵了。芦屋很暖和吧?但也请你多多保重,不要得了感冒。 请代向贞之助问好!
鹤子
元月十八日
東京をよく知らない幸子には、渋谷とか道玄坂附近とか云われても実感が湧いて来ないので、山手電車の窓から見た覚えのある郊外方面の町々、―――谷や、丘陵や、雑木林の多い入り組んだ地形の間に断続している家々の遠景、そのうしろにひろがっている、見るからに寒々とした冴えた空の色など、大阪辺とはまるで違う環境を思い浮かべて、勝手な想像をするより外はなかったが、「背中に水を浴びせられるような」とか「筆を持つ手も凍える」とか云う文句を読むにつけ、万事に旧式な本家では、大阪時代から冬も殆ど煖炉を使っていなかったことを思い出した。上本町の家では客間に電熱が引いてあって、電気ストーブを取り附けるようにはなっていたけれども、実際に使うのは稀に来客のあった場合、それもよくよく寒い日に限り、平素は火鉢だけだったので、幸子は正月年始に行って姉と対坐していると、いつも「背中に水を浴びせられるような」気持を味わい、風邪を引いて帰って来ることがしばしばあった。姉に云わせると、大阪の家庭で煖房と云うことがそろそろ普及し出したのは大正の末期頃で、万事に贅沢であった父でさえも、居間に始めて瓦斯ストーブを引いたのは亡くなる前の年ぐらいであったが、それも、引いては見たものの上気せると云って実際にはあまり使わなかった、自分達は皆、幼少の頃からどんな寒い日でも火鉢で育って来たのだと云うのであるが、そして確かにそう云われてみれば、幸子なども、貞之助と結婚して数年後、今の蘆屋の家に移った時から煖炉を使い出したのであるが、一度味を覚えてからは、とてもそれなしでは冬をしのぐことが出来なくなり、子供の時分に火鉢一つでしのいで来たことが、今になると不思議にさえ感じられた。然るに姉は東京へ行ってまで旧弊を押し通しているらしいので、芯が丈夫な雪子だからこそ堪えているものの、自分であったら肺炎か何かを起しているであろうと思えた。
幸子不太熟悉东京,说起涩谷或者道玄坂附近,都涌现不出什么实感,只有任意驰骋自己的想象,勾勒出一个与大阪完全不同的环境。她还记得,她曾坐在东京山手线电车上浏览窗外郊野的村镇——幽静的山谷,起伏的丘陵,众多的树林,三三两两的人家错落其间,那后面扩展开的是一眼望去凛冽、清澈的苍天。当幸子读到“背冷如凉水泼”“拿笔的手也冻僵了”这些话时,便想起凡事都墨守成规的本家,在大阪的时候冬天也几乎不使用火炉。上本町的家中客厅里装有取暖的电炉,但实际上只用于偶尔来客的场合,而且是极冷的日子里,平素只用火盆取暖。过去,幸子前往拜年,和姐姐相对而坐时总会感觉“背冷如凉水泼”,往往患了感冒回来。据姐姐说,在大阪只到大正末期,家庭暖气才逐渐普及,连凡事追求豪奢的父亲,也只是在逝世的前一年,才开始在居室里安装了煤气火炉,而且他说装了只是显摆,实际上并不怎么用。“我们都是从小不论多冷也只用火盆取暖,就这么长大的。”诚如鹤子所说,幸子也是和贞之助结婚数年后,搬到芦屋来时才用上了火炉。一旦尝到甜头就觉得冬天无它不可,反觉得孩提时代竟然靠一个小小火盆熬过了冬天,简直不可思议!然而,姐姐到了东京还在一味因循守旧。幸子想:“只有结实的雪子才能忍受,若换了我岂不会得肺炎。”
見合いの日取り決定については、陣場夫人と野村氏の間に浜田氏と云うものが介在していて、連絡を取るのに手間が懸ったが、なるべく節分前にと云う先方の希望が明かになったので、直ぐに雪子を寄越すように云ってやったのが、月のうちの二十九日であった。幸子は又、この前電話で失敗したことを思い出して、夫に頼んで離れの書斎へ大急ぎで卓上電話を引いて貰いなどしたが、三十日の午後、行き違いに姉から端書が来て、下の子供が二人一遍に流感になり、四つになる女の児梅子の方は肺炎になりそうなので大騒ぎをしている、看護婦を雇う筈だけれども狭くて寝かすところもないし、雪子ちゃんなら本職よりも頼りになることが秀雄の時で分っているから、看護婦は止めにした、そう云う訳だから勝手ながら陣場さんにお願いして今暫く待って貰うようにしてほしい、と云って来、又追っかけて、梅子がとうとう肺炎になった旨を知らせて来た。幸子は、これは十日や一週間では埒があきそうもないと見たので、陣場夫人に事情を云って一先ず延期を申し込んだが、先方はいつ迄でも待つと云うのであるから心配はないようなものの、何かと云うと看護婦代りに使われたりして損な役にばかり廻される雪子に、ひとしお不憫が懸るのであった。
确定相亲的日期一事,滨田在阵场夫人和野村之间居中联络,很费了些周折。因为对方提出希望尽量在节分以前见面,幸子便立即通知姐姐把雪子送来,这是这个月二十九号的事。幸子吸取了上次打电话的教训,让丈夫火速在别屋的书房里装上了电话。三十号下午收到了姐姐寄来的明信片,说是最小的两个孩子一起患了流感,四岁的女儿有可能转成肺炎,全家乱成一锅粥。本该雇用护士,但是房子太窄没法住,而前阵子雪子照看秀雄比护士还使人放心,就没再请护士了。因此,她们希望阵场夫人暂时宽延些时日。最后,她又补上一句:“梅子终于并发了肺炎。”幸子看这事情不像是十天八天能了结的,只好先向阵场夫人说明原委,要求延期。阵场夫人答复说:“他说等多久也不在乎,您就不必担心了。”只是幸子想起雪子动不动被当作护士使唤,尽干些苦活儿,更觉雪子可怜。
ところで、見合いが延びた間に、かねて手配をして置いた調査の方が捗って、興信所から報告書を送って来たが、それに依ると、野村氏の地位は高等官三等で、年俸三千六百円程度、外に賞与が若干とあるから、月に割ると三百五十円前後になる。父の代には郷里姫路で旅館業をしていたらしいのであるが、現在郷里には家屋敷が残っていない。親戚は、実妹が東京の太田某と云う薬剤師に嫁いでいる外に、姫路に叔父が二人あって、一人は骨董商を営みつつ茶道の宗匠をしてい、一人は登記所の司法書士をしている。その外に、関西電車の社長浜田丈吉が本人の従兄に当ってい、これが唯一の誇るに足る親戚でもあれば庇護者でもある。(そしてこれが又、陣場夫人の所謂「恩人」であって、夫人の夫は昔浜田家の玄関番をしつつ通学させて貰ったと云う恩義があるのだそうである)報告書の記載は大体以上で尽きているが、なお調査の結果、昭和十年に亡くなった先妻の病気が本人の記す通り流感に間違いのないこと、二人の子供の死んだ原因も決して遺伝性の病気ではなかったこと、等々も判明した。次に本人の性行や人物について、貞之助が二三の方面へ手蔓を求めて問い合せたところ、他にこれと云う欠点はないけれども一つ奇癖のあることが知れた、と云うのは、兵庫県庁に勤務する同僚の話に依ると、野村氏は時々、極めて突然、全く無意味と云ってもよい取り止めのない独語を洩らす癖がある、それは大概傍に聞いている者がいないと思う時に洩らすらしいのであるが、本人は聞かれていないつもりでも誰かに聞かれていることが度々あって、今では同僚の間で知らぬ者は一人もない、亡くなった細君や子供もその癖をよく知っていて、おかしなことを云うお父さんだと云って笑ったものであると云う。一例を挙げると、或る時同僚の一人が役所の厠の仕切りの中でしゃがんでいると、隣の仕切りに人が這入って来たけはいがして、やがて、「もしもし、あなたは野村さんですか」と、二度繰り返して問う声が聞えた。その同僚はもう少しで「いえ、僕は何某です」と答えようとしたが、「あなたは野村さんですか」と云うその声が野村氏自身の声に紛れもないので、例のひとりごとだなと心づいた、と同時に、きっと野村氏は隣の仕切りに人がいることを知らないのに違いないと思うと、気の毒になってじっと息をつめていた。が、なかなか時間が懸かるので、待ちくたびれて先に出てしまったが、顔は見られないで済んだ。恐らく野村氏も隣から人が出たことを知って「しまった」とは思ったであろうが、その人が誰であったか彼には分らずじまいに終り、後で何事もなかったように平気で執務していたと云う。そんな工合で、ひとりごとと云っても一向たわいのない、罪のないことを云うのだけれども、それだけになお聞いた者は出し抜けで可笑しく感じる。そして、ついうっかりと出てしまうのであるらしいけれども、全然無意識に洩らすのでないことは、人がいると云わないようにしているのでも明かであって、誰かに聞かれそうな心配のない時は驚くほど大声を発することがあり、たまたまそんな時に物蔭に居合せた者は、発狂したのではないかと思ってびっくりさせられる、と云うのである。
在推延相亲的期间,原先安排的调查已有进展,信用调查所的调查报告寄来了。报告说野村的地位是高等官三等,年薪三千六百元,另有奖金若干,月平均收入为三百五十元左右。其父似在家乡姬路经营旅馆,现在老家已无房产。亲属中一胞妹嫁给东京一位姓太田的药剂师,在姬路有两个叔叔,一人是古董商兼教授茶道,一人在注册处任司法书士。另外就是这个表兄滨田丈吉,现任关西电车公司经理,这是唯一值得夸耀的亲戚和靠山。(另外,此人又被阵场夫人称为恩人,据说其丈夫曾在滨田家看门,滨田家恩准他白天上学晚上看门。)报告书上记载的大体就是这些。此外,调查结果表明正如野村所言,其昭和十年死去的前妻,确系死于流感,两个孩子的死因也绝非遗传性疾病,等等。其次,关于本人的品性,贞之助通过多方面打听,了解到并无其他缺点。只有一个怪毛病,据其兵库县政府的同事说,野村经常极突然地自言自语,说些毫无意义、不着边际的话,自以为旁边没有听者,实际上往往被人听见了。时至今日,同事中无一不知,而他已经故世的妻子和小孩也熟知他有这个毛病,都笑话他是“说古怪话的爸爸”。举一个例子,有一次,他一个同事在县政府厕所里蹲着,听到间板隔壁像是进来了一个人。过一会儿,便听见那边问,“喂!喂!您是野村先生吗?”反复问了两遍,同事差一点就要回答:“不是,我是某某人。”此时这位同事意识到,那是野村本人的声音,他又在自言自语了。与此同时,同事想到野村一定不知道隔壁有人,心生怜悯,便屏声静气地蹲着,但是,等了很久还不见他出来,已经蹲累了,也就先走出去了,没让野村看见他是谁。野村可能也知道了隔壁有人走出去,会觉得“这可糟了”,可是他终究不知道那人是谁,以后他便若无其事似的照常工作去了。情况就是这样,自言自语说的都是些天真幼稚的话,正因为如此,更使听者感到突然和可笑。虽然他的自言自语像是无意说出来的,但也并非毫无意识,很明显,有人在场时他不会说,要是不担心旁人听见,他就令人吃惊地大声嚷嚷,这时碰巧在暗地听到的人就会吓一大跳,怀疑他是否发疯了。
で、まあ、格別人に迷惑や不愉快を与えるような癖ではないし、それがためにどうこうと云う程のものではないかも知れないが、何もそう云う人を選りに選って夫に持たないでもよいには違いないし、それより何より、写真の顔が四十六歳と云う年よりも非常に老けていて、爺むさく、五十歳以上の老人に見えると云うこと、これが幸子の考では最大の難点で、雪子の気に入らないことはほぼ確実と云ってよく、第一回の見合いに於いて落第する運命にあるのは先ず明かであった。そう云う訳で今度はあまり張合いのない縁談だけれども、それが雪子を呼び寄せる表面の口実であってみれば、兎も角も「見合い」をさせるだけはさせなければ、―――と、云ったようなところが幸子たち夫婦の正直な気持であった。そして、どうせ纏まりそうもないものなら、厭なことは知らせる迄もないので、奇癖の件は雪子に云わないで置くことに相談をきめていた。
好在这不是一个特别打扰别人、令人不快的毛病,也许也不是大不了的事。但是,挑来挑去,还是不要挑选这种人做丈夫为妙。更要命的是,从照片上看他似乎远不止四十六岁,像个五十开外的老爷子。幸子认为这是最大的难点,可以说十之八九雪子不会中意,不难预料,第一次见面就注定会落选。因此,幸子夫妇对这桩婚事并不抱希望,但是要用这个借口把雪子叫来,好歹也得让他们见上一面。这便是幸子夫妇真实的心情。而且,反正这桩婚事谈不成,也就没必要让雪子知道这些讨厌的事情,所以他们商量好了不告诉雪子他有这毛病。