中島敦: 弟子
first published:『中央公論』1943年2月号
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desc: 以《论语》为原典创作的短篇小说,讲述子路拜入孔子门下,直至在卫国政变中身亡的故事。作品饱含情感地刻画了子路拜师后,在自己率直鲁莽的性格与儒家学说之间的巨大反差中,一边苦恼一边求学的模样,以及孔子虽时常严厉斥责他,却始终真心喜爱他的样子
一
魯の卞の游侠の徒、仲由、字は子路という者が、近頃賢者の噂も高い学匠・陬人孔丘を辱しめてくれようものと思い立った。
鲁国汴邑有位游侠,名仲由,字子路,一日立意要将近时颇有贤者之名的学匠陬人孔丘羞辱一番。
似而非賢者何程のことやあらんと、蓬頭突鬢・垂冠・短後の衣という服装で、左手に雄雞、右手に牡豚を引提げ、勢猛に、孔丘が家を指して出掛ける。雞を揺り豚を奮い、嗷しい1脣吻の音をもって、儒家の絃歌講誦の声を擾そうというのである。
“且看冒牌贤者有甚高明!”他蓬头突鬓,歪垂着冠,腰系一条短裙,左手提雄鸡,右手牵公猪,气势汹汹地朝孔丘家冲去。手中禽畜被他奋力摇晃发出嗷嗷唇吻之音,意在扰乱儒家弦歌讲诵之声。
けたたましい動物の叫びと共に眼を瞋らして跳び込んで来た青年と、圜冠句履緩く玦を帯びて几に凭った温顔の孔子との間に、問答が始まる。
伴着嘈杂的动物叫声跳进室内的怒目圆睁的青年,与环冠勾履、腰佩玉玦、凭几而坐、容颜温和的孔子之间,开始了问答。
「汝、何をか好む?」と孔子が聞く。
“汝何所好?”孔子问道。
「我、長剣を好む。」と青年は昂然として言い放つ。
“我好长剑!”青年昂然放言。
孔子は思わずニコリとした。青年の声や態度の中に、余りに稚気満々たる誇負を見たからである。血色のいい・眉の太い・眼のはっきりした・見るからに精悍そうな青年の顔には、しかし、どこか、愛すべき素直さがおのずと現れているように思われる。再び孔子が聞く。
孔子不禁莞尔一笑。只因从青年的声音和态度里,他看到了一股稚气满满的自负。青年气色健康,眉浓目清,一眼看去十分精悍,可不知什么地方又自然浮现出一种招人喜爱的坦率。
「学はすなわちいかん?」
孔子再问:“学则如何?”
「学、豈、益あらんや。」もともとこれを言うのが目的なのだから、子路は勢込んで怒鳴るように答える。
“学岂有益哉!”原本就是为说这句话才来的,子路使出力气像怒吼一样答道。
学の権威について云々されては微笑ってばかりもいられない。孔子は諄々として学の必要を説き始める。人君にして諫臣が無ければ正を失い、士にして教友が無ければ聴を失う。樹も縄を受けて始めて直くなるのではないか。馬に策が、弓に檠2が必要なように、人にも、その放恣な性情を矯める教学が、どうして必要でなかろうぞ。匡し理め磨いて、始めてものは有用の材となるのだ。
在学的权威遭到说三道四时只靠微笑可不行,孔子谆谆讲起了学之必要。人君没有谏臣就会失正,士没有诤友就会失听。树不也是受绳后才长直的吗?正如马需要策、弓需要檠一样,人也需要靠学习来矫正原本放恣的性情。经过匡正琢磨,物始成为有用之材。
後世に残された語録の字面などからは到底想像も出来ぬ・極めて説得的な弁舌を孔子は有っていた。言葉の内容ばかりでなく、その穏かな音声・抑揚の中にも、それを語る時の極めて確信に充ちた態度の中にも、どうしても聴者を説得せずにはおかないものがある。青年の態度からは次第に反抗の色が消えて、ようやく謹聴の様子に変って来る。
只从流传后世的语录的字面无论如何想象不出,孔子拥有怎样极具说服力的辩才。不光话的内容,在那沉稳而又抑扬顿挫的声调和确信不移的态度中,都具有一种令听者不得不信服的力量。青年脸上反抗的神情逐渐消失了,代之以谨听的样子。
「しかし」と、それでも子路はなお逆襲する気力を失わない。南山の竹は揉めずして自ら直く、斬ってこれを用うれば犀革の厚きをも通すと聞いている。して見れば、天性優れたる者にとって、何の学ぶ必要があろうか?
“可是,”虽然如此,子路还没有失去反击的勇气,“南山竹不揉自直,斩断后用它可以穿透厚厚的犀牛皮。由此看来,天性优秀的人岂不是没有学的必要吗?”
孔子にとって、こんな幼稚な譬喩を打破るほどたやすい事はない。汝の云うその南山の竹に矢の羽をつけ鏃を付けてこれを礪いたならば、ただに犀革を通すのみではあるまいに、と孔子に言われた時、愛すべき単純な若者は返す言葉に窮した。顔を赧らめ、しばらく孔子の前に突立ったまま何か考えている様子だったが、急に雞と豚とを抛り出し、頭を低れて、「謹しんで教を受けん。」と降参した。
没有比打破如此幼稚的比喻对孔子更容易的事了。“你所说的南山竹如果安上箭镞羽毛,再加以磨砺的话,何止能穿透犀牛皮呢?”被这么一说,单纯得可爱的青年顿时无言以对。他红着脸兀立在孔子面前,似乎思索了一会儿之后,突然扔掉手里的鸡和猪,低头认输道:“谨请受教。”
単に言葉に窮したためではない。実は、室に入って孔子の容を見、その最初の一言を聞いた時、直ちに雞豚の場違いであることを感じ、己と余りにも懸絶した相手の大きさに圧倒されていたのである。
事实上,从刚进房间看到孔子第一眼,听到孔子第一句话起,他就已经感到鸡和猪与这个地方不相称,被远远凌驾于自己之上的对方的宏大气势压倒了。
即日、子路は師弟の礼を執って孔子の門に入った。
即日起,子路执弟子礼进入了孔子门下。
二
このような人間を、子路は見たことがない。力千鈞の鼎を挙げる勇者を彼は見たことがある。明千里の外を察する智者の話も聞いたことがある。しかし、孔子に在るものは、決してそんな怪物めいた異常さではない。ただ最も常識的な完成に過ぎないのである。知情意のおのおのから肉体的の諸能力に至るまで、実に平凡に、しかし実に伸び伸びと発達した見事さである。一つ一つの能力の優秀さが全然目立たないほど、過不及無く均衡のとれた豊かさは、子路にとって正しく初めて見る所のものであった。
这样的人,子路从来不曾见过。他看到过力举千斤鼎的勇士,也听说过明察千里外的智者;可孔子身上有的决不是那种近乎怪物似的异常之能,而不过是最常识性的达成。那是从知情意各个方面到身体诸项能力都平凡地、却又无比舒展地获得发达后生出的精彩。不是单独哪一项能力特别优秀引人注目,而是无过无不及的整体均衡中包含的丰富。这些对于子路完全是第一次。
闊達自在、いささかの道学者臭も無いのに子路は驚く。この人は苦労人だなとすぐに子路は感じた。可笑しいことに、子路の誇る武芸や膂力においてさえ孔子の方が上なのである。ただそれを平生用いないだけのことだ。侠者子路はまずこの点で度胆を抜ぬかれた。放蕩無頼の生活にも経験があるのではないかと思われる位、あらゆる人間への鋭い心理的洞察がある。そういう一面から、また一方、極めて高く汚れないその理想主義に至るまでの幅の広さを考えると、子路はウーンと心の底から呻らずにはいられない。
令子路吃惊的是孔子之阔达自在,竟全然没有一丝道学家的腐气。子路立刻直觉到这是一个吃过苦的人。可笑的是,就连子路引以为豪的武艺和膂力,也是孔子更为高强一些,只不过从来不用而已。游侠子路首先被这一点镇住了胆魄。简直令人怀疑孔子是不是连放荡无赖的生活也经历过,这个人竟然对所有人的心理都具有敏锐的洞察。从这样一些侧面,再一直到那极为高远、不容玷污的理想主义,想到其间的宽阔,子路不由从心底发出了感叹。
とにかく、この人はどこへ持って行っても大丈夫な人だ。潔癖な倫理的な見方からしても大丈夫だし、最も世俗的な意味から云っても大丈夫だ。子路が今までに会った人間の偉さは、どれも皆その利用価値の中に在った。これこれの役に立つから偉いというに過ぎない。孔子の場合は全然違う。ただそこに孔子という人間が存在するというだけで充分なのだ。少くとも子路には、そう思えた。彼はすっかり心酔してしまった。門に入っていまだ一月ならずして、もはや、この精神的支柱から離れ得ない自分を感じていた。
总之,这是个不论放在哪里都“没问题”的人。从有洁癖的伦理角度来看没问题,用最世俗的标准衡量也没问题。子路从前碰到的人们,其伟大之处都在于其利用价值。因为对这个或那个地方有用,所以是伟大的。然而孔子的情况截然不同。只要这里有孔子这个人,那么一切就都完美了。至少子路是这么想的。他完全心醉了。入门不到一月,就发现了一个再也离不开这个精神支柱的自己。
後年の孔子の長い放浪の艱苦を通じて、子路ほど欣然として従った者は無い。それは、孔子の弟子たることによって仕官の途を求めようとするのでもなく、また、滑稽なことに、師の傍に在って己の才徳を磨こうとするのでさえもなかった。死に至るまで渝らなかった・極端に求むる所の無い・純粋な敬愛の情だけが、この男を師の傍に引留めたのである。かつて長剣を手離せなかったように、子路は今は何としてもこの人から離れられなくなっていた。
后来,在孔子漫长艰苦的流浪生涯中,没有人像子路那样欣然跟从。既不是想作为孔门弟子求取仕途,甚至也不是为了在老师身旁磨练自己的才德。后面一点不无滑稽。是至死未渝的、纯粹而一无所求的敬爱之情把他留在了老师身边。就像以前手不离长剑一样,如今的子路无论如何也无法离开这个人。
その時、四十而不惑といった・その四十歳に孔子はまだ達していなかった。子路よりわずか九歳の年長に過ぎないのだが、子路はその年齢の差をほとんど無限の距離に感じていた。
那时,孔子尚未到四十不惑之年,比子路只不过年长九岁。然而,子路从这年龄的差距中感受到近乎无限的距离。
孔子は孔子で、この弟子の際立った馴らし難さに驚いている。単に勇を好むとか柔を嫌うとかいうならば幾らでも類はあるが、この弟子ほどものの形を軽蔑する男も珍しい。究極は精神に帰すると云いじょう、礼なるものはすべて形から入らねばならぬのに、子路という男は、その形からはいって行くという筋道を容易に受けつけないのである。「礼と云い礼と云う。玉帛を云わんや。楽と云い楽と云う。鐘鼓を云わんや。」などというと大いに欣んで聞いているが、曲礼の細則を説く段になるとにわかに詰まらなさそうな顔をする。形式主義への・この本能的忌避と闘ってこの男に礼楽を教えるのは、孔子にとってもなかなかの難事であった。
孔子这一边,也在为这个弟子与众不同的难驯感到吃惊。单是喜好武勇、厌弃文弱的话,倒也有不少例子,可像这个弟子一样轻蔑形式的却着实少见。不错,终极归于精神,但所谓“礼”必须从形式进入,然而子路轻易不肯接受这条从形式进入的道路。“礼云礼云,玉帛云乎哉。乐云乐云,钟鼓云乎哉。”当孔子这么讲时,他欣欣然听得很起劲,可一到讲礼乐细则时,他马上就露出一脸无聊。一边同这种对形式主义的本能反感作斗争,一边传授他礼乐,即使对孔子来说也是不同寻常地困难。
が、それ以上に、これを習うことが子路にとっての難事業であった。子路が頼るのは孔子という人間の厚みだけである。その厚みが、日常の区々たる細行の集積であるとは、子路には考えられない。本があって始めて末が生ずるのだと彼は言う。しかしその本をいかにして養うかについての実際的な考慮が足りないとて、いつも孔子に叱られるのである。彼が孔子に心服するのは一つのこと。彼が孔子の感化を直ちに受けつけたかどうかは、また別の事に属する。
但与这种困难相比,学习礼乐对子路来说是更为艰难。子路所依赖的只是孔子这个人的厚度。但他无法相信,那厚度竟然是靠日常生活中的区区细行积累而成。他主张说有本才有末,却不去考虑本是如何形成的,为这个总是受到孔子训斥。他佩服孔子是一回事,但他是否立刻接受了孔子的教化又是另一回事。
上智と下愚は移り難いと言った時、孔子は子路のことを考えに入れていなかった。欠点だらけではあっても、子路を下愚とは孔子も考えない。孔子はこの剽悍な弟子の無類の美点を誰よりも高く買っている。それはこの男の純粋な没利害性のことだ。この種の美しさは、この国の人々の間に在っては余りにも稀なので、子路のこの傾向は、孔子以外の誰からも徳としては認められない。むしろ一種の不可解な愚かさとして映るに過ぎないのである。しかし、子路の勇も政治的才幹も、この珍しい愚かさに比べれば、ものの数でないことを、孔子だけは良く知っていた。
在说唯上智与下愚难移时,孔子并没有把子路考虑在内。虽然子路身上满是缺点,孔子也并不以他为下愚。孔子比谁都更欣赏这个剽悍的弟子身上无双的优点,那就是纯粹的无利害心。此种优点在这个国家的人们当中过于稀缺,以致子路身上的这一倾向除了孔子以外,不被任何人当作美德,或者不如说是被看成一种不可理解的愚蠢才更准确。但是,唯有孔子知道,子路的英勇也好,政治才干也好,若与这种珍贵的愚蠢比起来,都还是微不足道的。
師の言に従って己を抑え、とにもかくにも形に就こうとしたのは、親に対する態度においてであった。孔子の門に入って以来、乱暴者の子路が急に親孝行になったという親戚中の評判である。褒められて子路は変な気がした。親孝行どころか、嘘ばかりついているような気がして仕方が無いからである。我儘を云って親を手古摺らせていた頃ころの方が、どう考えても正直だったのだ。今の自分の偽りに喜ばされている親達が少々情無くも思われる。
只有在对待双亲的态度上,子路听从了师言,好歹抑制自己、迁就形式。亲戚们都说,自从进入孔门以后,从前那个忤逆不孝的子路突然变成了孝子。听到这些称赞,子路本人心情复杂。“什么孝子!还不如说尽是在扯谎来得恰当。”怎么想也是以前言行任性常常令父母束手无策的时候更诚实。如今被自己的虚伪哄得高兴不已的双亲想起来甚至有点可怜……
こまかい心理分析家ではないけれども、極めて正直な人間だったので、こんな事にも気が付くのである。ずっと後年になって、ある時突然、親の老いたことに気が付き、己の幼かった頃の両親の元気な姿を思出したら、急に泪が出て来た。その時以来、子路の親孝行は無類の献身的なものとなるのだが、とにかく、それまでの彼の俄か孝行はこんな工合であった。
子路不是精细的心理分析学家,但由于极端正直的性格,所以感觉到了这些。只是在多年之后有一天,他无意间发现父母都已经垂垂老去,想起自己小时候两人年轻健康的样子,顿时涌出了眼泪。从那以后,子路的孝顺变成了一种世所罕见的献身式的行为。但在那之前,总之他的孝行不过是刚才所讲的那样。
三
ある日子路が街を歩いて行くと、かつての友人の二三に出会った。無頼とは云えぬまでも放縦にして拘わる所の無い游侠の徒である。
有一天,子路走在街上,遇到两三个从前的朋友。不说是无赖,至少也都是些放纵不羁的游侠之徒。
子路は立止ってしばらく話した。その中に彼等の一人が子路の服装をじろじろ見廻し、やあ、これが儒服という奴か? 随分みすぼらしいなりだな、と言った。長剣が恋しくはないかい、とも言った。
子路站住和他们聊了会儿天。谈话当中,其中一人上下打量着子路的衣服,说道:“咳,这就是儒服吗?可真够寒碜的嘛。”接着又问:“不留恋长剑吗?”
子路が相手にしないでいると、今度は聞捨のならぬことを言出した。どうだい。あの孔丘という先生はなかなかの喰わせものだって云うじゃないか。しかつめらしい顔をして心にもない事を誠しやかに説いていると、えらく甘い汁が吸えるものと見えるなあ。
子路先是不理他,这下又说出让子路没法不理的话来了:“怎么样啊?听说那位叫孔丘的先生可是个了不起的骗子哩。装出一脸正经说些心里没影儿的事,就能吃香喝辣的。”
別に悪意がある訳ではなく、心安立からのいつもの毒舌だったが、子路は顔色を変えた。いきなりその男の胸倉を掴み、右手の拳をしたたか横面に飛ばした。二つ三つ続け様に喰わしてから手を離すと、相手は意気地なく倒れた。
说话的人并无恶意,只是当着不见外的朋友一贯喜欢毒口恶舌而已。但子路顿时勃然大怒。他一把揪住对方胸口,挥起右拳朝那人脸上砸去。几拳过后把手松开看时,对方像摊烂泥似的倒在了地上。
呆気に取られている他の連中に向っても子路は挑戦的な眼を向けたが、子路の剛勇を知る彼等は向って来ようともしない。殴られた男を左右から扶け起し、捨台詞一つ残さずにこそこそと立去った。
子路冲着其他几个吓呆的家伙也投去了挑战的眼神,但一向知道子路刚勇的他们没有一个敢过来的,从左右两边扶起挨打的人,一句话也没有说,灰溜溜地走开了。
いつかこの事が孔子の耳に入ったものと見える。子路が呼ばれて師の前に出て行った時、直接には触れないながら、次のようなことを聞かされねばならなかった。
这事不知何时似乎传进了孔子耳朵里。子路被叫到老师面前时,虽然没有被直接问起这件事,却不得不听了下面一番训诫。
古の君子は忠をもって質となし仁をもって衛となした。不善ある時はすなわち忠をもってこれを化し、侵暴ある時はすなわち仁をもってこれを固うした。腕力の必要を見ぬゆえんである。とかく小人は不遜をもって勇と見做し勝ちだが、君子の勇とは義を立つることの謂である云々。神妙に子路は聞いていた。
“古代的君子以忠为质,以仁为卫。遇不善时以忠化之,遇侵暴时以仁固之。可见腕力并没有必要。总之,小人容易将不逊看作勇武,但君子之勇在于立义。”子路不知所以地听了一通。
数日後、子路がまた街を歩いていると、往来の木蔭で閑人達の盛んに弁じている声が耳に入った。それがどうやら孔子の噂のようである。――昔、昔、と何でも古を担ぎ出して今を貶す。誰も昔を見たことがないのだから何とでも言える訳さ。しかし昔の道を杓子定規にそのまま履んで、それで巧く世が治まるくらいなら、誰も苦労はしないよ。俺達にとっては、死んだ周公よりも生ける陽虎3様の方が偉いということになるのさ。
几天后,子路又走在街上,听到路旁树荫里有一帮闲人正争论得热闹。听起来像是关于孔子的谣言。——“从前,从前,不管什么事都抬出从前来贬低现在。谁都没见过,所以随便他怎么说啦。可惜啊,要是把从前的道当成尺子、圆规,天下就能治理好的话,谁也用不着费劲了。对咱们来说,比起死了的周公,活着的阳虎大人才伟大呢。”
下剋上の世であった。政治の実権が魯侯からその大夫たる季孫氏の手に移り、それが今や更に季孫氏の臣たる陽虎という野心家の手に移ろうとしている。しゃべっている当人はあるいは陽虎の身内の者かも知れない。
当时是下克上的社会。政治实权先是从国君鲁侯旁落到大夫季孙氏手中,如今又落入了季孙氏的家臣、名叫阳虎的野心家手里。说话的人没准就是阳虎的手下。
――ところで、その陽虎様がこの間から孔丘を用いようと何度も迎えを出されたのに、何と、孔丘の方からそれを避けているというじゃないか。口では大層な事を言っていても、実際の生きた政治にはまるで自信が無いのだろうよ。あの手合4はね。
——“阳虎大人最近想起用孔丘,几次派出了使者,结果孔丘不是都没敢见吗?嘴上吹着牛皮,可对活生生的政治一点自信也没有。就凭那个家伙!”
子路は背後から人々を分けて、つかつかと弁者の前に進み出た。人々は彼が孔門の徒であることをすぐに認めた。今まで得々と弁じ立てていた当の老人は、顔色を失い、意味も無く子路の前に頭を下げてから人垣の背後に身を隠た。眥5を決した子路の形相が余りにすさまじかったのであろう。
子路从后面分开人群,大步走到了说话的人面前。人们立刻认出他是孔门弟子。刚才还满脸得意、喋喋不休的老人忽然变得面色苍白,不知为何竟然对子路鞠了个躬,随即挤出人墙去了。决眦欲裂的子路的模样大概是过于骇人了吧。
その後しばらく、同じような事が処々で起った。肩を怒らせ炯々と眼を光らせた子路の姿が遠くから見え出すと、人々は孔子を刺る口を噤むようになった。
随后一段时间,许多地方发生了同样的事。渐渐地,只要远远望见紧攥双拳、圆睁怒眼的子路的身影,人们就自动闭上了诋毁孔子的嘴巴。
子路はこの事で度々師に叱られるが、自分でもどうしようもない。彼は彼なりに心の中では言分が無いでもない。いわゆる君子なるものが俺と同じ強さの忿怒を感じてなおかつそれを抑え得るのだったら、そりゃ偉い。しかし、実際は、俺ほど強く怒りを感じやしないんだ。少くとも、抑え得る程度に弱くしか感じていないのだ。きっと…………。
子路为这事几次被老师训斥,但是他自己也毫无办法。在他心里也不是没有自己的辩解:“所谓君子如果感到和我同样强烈的愤怒还能抑制的话,那真是了不起。可事实上,一定没有像我这么强烈。至少,他只感到了在自己可以控制的范围内的愤怒。肯定的……”
一年ほど経ってから孔子が苦笑と共に嘆じた。由が門に入ってから自分は悪言を耳にしなくなったと。
一年后,孔子苦笑着叹息了:“自仲由入门以来,恶言绝于耳矣。”
四
ある時、子路が一室で瑟を鼓していた。
一次,子路独自在室内鼓瑟。
孔子はそれを別室で聞いていたが、しばらくして傍らなる冉有に向って言った。あの瑟の音を聞くがよい。暴厲の気がおのずから漲っているではないか。君子の音は温柔にして中におり、生育の気を養うものでなければならぬ。昔舜は五絃琴を弾じて南風の詩を作った。南風の薫ずるやもって我が民の慍を解くべし。南風の時なるやもって我が民の財を阜にすべしと。今由の音を聞くに、誠に殺伐激越、南音に非ずして北声に類するものだ。弾者の荒怠暴恣の心状をこれほど明らかに映し出したものはない。――
孔子在别室倾听有顷后,对侍立身旁的冉有说道:“听听那瑟的声音吧。充满暴戾之气不是吗?君子之音讲究的是温柔中正,涵育生机。当年舜帝奏五弦琴,作《南风颂》,歌曰:南风之熏兮,可以解吾民之愠。南风之时兮,可以阜吾民之财。如今听仲由的乐音,杀伐激越,非南音而类北声啊。弹者心境的荒芜暴躁,再没有像这样暴露无遗了。”
後、冉有が子路の所へ行って夫子の言葉を告げた。
冉有退下后,找到子路转告了夫子的话。
子路は元々自分に楽才の乏しいことを知っている。そして自らそれを耳と手のせいに帰していた。しかし、それが実はもっと深い精神の持ち方から来ているのだと聞かされた時、彼は愕然として懼れた。大切なのは手の習練ではない。もっと深く考えねばならぬ。彼は一室に閉じ籠り、静思して喰わず、もって骨立するに至った。
子路一向知道自己缺少乐才,并将其归之于手指和耳朵的缘故。可如今,当听说那其实来自于更深层的精神存在方式时,他愕然惊恐了。重要的原来不是手法的修练。必须更深刻思考。他将自己关入一间静室,沉思不食,直至形销骨立。
数日の後、ようやく思い得たと信じて、再び瑟を執った。そうして、極めて恐る恐る弾じた。その音を洩れ聞いた孔子は、今度は別に何も言わなかった。咎めるような顔色も見えない。子貢が子路の所へ行ってそのむねを告げた。師の咎が無かったと聞いて子路は嬉しげに笑った。
几天后,自信思有所得时,才再次执瑟,不胜惶恐地弹奏了一曲。孔子虽然听到了瑟声,但这次什么也没有说,脸上没有显出责备的样子。子贡到子路那里告知了一切。得知老师没有责怪后,子路高兴地笑了起来。
人の良い兄弟子の嬉しそうな笑顔を見て、若い子貢も微笑を禁じ得ない。聡明な子貢はちゃんと知っている。子路の奏でる音が依然として殺伐な北声に満ちていることを。そうして、夫子がそれを咎めたまわぬのは、痩せ細るまで苦しんで考え込んだ子路の一本気を愍まれたために過ぎないことを。
看到好兄弟兴奋的笑容,年轻的子贡忍不住笑了。聪明的子贡知道,子路弹出的乐音仍然充满北声的杀伐之气;而夫子之所以不加责备,只是出于对苦思到人都瘦了的直性子子路的怜悯罢了。
五
弟子の中で、子路ほど孔子に叱られる者は無い。子路ほど遠慮なく師に反問する者もない。
弟子当中,再没有人像子路那么经常遭到孔子训斥,也没有人会像他那么无所顾忌地对老师发问。
「請う。古の道を釈てて由の意を行わん。可ならんか。」などと、叱られるに決っていることを聞いてみたり、孔子に面と向ってずけずけと「これある哉。子の迂なるや!」などと言ってのける人間は他に誰もいない。
“请问,抛弃古道,按由的心意行事,可以吗?”这种注定会遭到训斥的问题,他也问得出来。当着孔子的面,他会不客气地说:“有这样的吗?像夫子这么迂阔!”
それでいて、また、子路ほど全身的に孔子に凭り掛かっている者もないのである。どしどし問返すのは、心から納得出来ないものを表面だけ諾うことの出来ぬ性分だからだ。また、他の弟子達のように、嗤われまい叱られまいと気を遣わないからである。
但是与此同时,弟子中也没有人像子路那样全身心地依靠在孔子身上。毫无顾忌地问个不停,是因为天性使然,对心里想不通的事情做不到表面上唯唯诺诺;也是因为不像其他弟子那样,步步留心以免遭到斥责或嘲笑。
子路が他の所ではあくまで人の下風6に立つを潔しとしない独立不羈の男であり、一諾千金の快男児であるだけに、碌々たる凡弟子然として孔子の前に侍っている姿は、人々に確かに奇異な感じを与えた。事実、彼には、孔子の前にいる時だけは複雑な思索や重要な判断は一切師に任せてしまって自分は安心しきっているような滑稽な傾向も無いではない。母親の前では自分に出来る事までも、してもらっている幼児と同じような工合である。退いて考えてみて、自ら苦笑することがある位だ。
子路生平独立不羁,以甘居人下为不洁,是位一诺千金的好男儿。正因为这样,他以一介平凡弟子的模样碌碌侍奉在孔子身边的情景,给人一种奇异的感觉。其实在他身上,不是没有一种滑稽的倾向。只要是待在孔子身边,就把复杂的思考和重要的判断全部托付老师,自己则尽享无忧无虑。就好像幼童在母亲身边时,即使自己会做的事也非要母亲代劳一样。有时退下后他自己回想起来,也不禁感到好笑。
だが、これほどの師にもなお触れることを許さぬ胸中の奥所がある。ここばかりは譲れないというぎりぎり結著の所が。
但是,即使对如此敬爱的老师也有一个不容触摸的心底的秘密。唯有这里,是寸步不能轻让的最后防线。
すなわち、子路にとって、この世に一つの大事なものがある。そのものの前には死生も論ずるに足りず、いわんや、区々たる利害のごとき、問題にはならない。侠といえばやや軽すぎる。信といい義というと、どうも道学者流で自由な躍動の気に欠ける憾みがある。そんな名前はどうでもいい。子路にとって、それは快感の一種のようなものである。とにかく、それの感じられるものが善きことであり、それの伴わないものが悪しきことだ。
对于子路,有一件世上顶要紧的东西。在它面前,死生尚不足论,更不用说区区利害。“侠”这个字眼略嫌轻率,“信”呀“义”呀的,又过分道学气而缺少自由灵动之感。总之,名字无关紧要。对子路来说,那近似于一种快感。能感到它的就是善,不具备它的就是恶。
極めてはっきりしていて、いまだかつてこれに疑を感じたことがない。孔子の云う仁とはかなり開き7があるのだが、子路は師の教の中から、この単純な倫理観を補強するようなものばかりを選んで摂り入れる。巧言令色足恭、怨ヲ匿シテ其ノ人ヲ友トスルハ、丘之ヲ恥ヅ とか、生ヲ求メテ以テ仁ヲ害スルナク身ヲ殺シテ以テ仁ヲ成スアリ とか、狂者ハ進ンデ取リ狷者ハ為サザル所アリ とかいうのが、それだ。
非常清楚明了,至今还从未对这一点产生过怀疑。它和孔子所讲的“仁”大相径庭,但子路从老师的教诲里面,只选择能巩固这个单纯伦理观的东西来吸取。比如,“巧言令色足恭,匿怨而友其人,丘耻之。”或者“无求生以害仁,有杀身以成仁。”又如,“狂者进取,狷者有所不为也。”这些就是。
孔子も初めはこの角を矯めようとしないではなかったが、後には諦めて止めてしまった。とにかく、これはこれで一匹の見事な牛には違いないのだから。策を必要とする弟子もあれば、手綱を必要とする弟子もある。容易な手綱では抑えられそうもない子路の性格的欠点が、実は同時にかえって大いに用うるに足るものであることを知り、子路には大体の方向の指示さえ与えればよいのだと考えていた。
孔子最初不是没有想要矫正他这个犄角,可后来就放弃了。不管怎样,眼下这无疑还不失为一头出色的牛。有需要鞭子的弟子,也有需要缰绳的弟子。用普通缰绳无法驾驭的子路,其性格上的缺点,同时却也是大有可为的优点。由于深知这一点,所以孔子认为只要指给子路大体上的方向就够了。
敬ニシテ礼ニ中ラザルヲ野トイヒ、勇ニシテ礼ニ中ラザルヲ逆トイフ とか、信ヲ好ンデ学ヲ好マザレバソノ蔽ヤ賊、直ヲ好ンデ学ヲ好マザレバソノ蔽ヤ絞 などというのも、結局は、個人としての子路に対してよりも、いわば塾頭格としての子路に向っての叱言である場合が多かった。子路という特殊な個人に在ってはかえって魅力となり得るものが、他の門生一般についてはおおむね害となることが多いからである。
“敬而不中礼,谓之野。勇而不中礼,谓之逆。”“好直不好学,其蔽也绞;好勇不好学,其蔽也乱。”这些话,与其说是讲给作为个人的子路听的,还不如说是讲给作为学生头的子路听的。因为在子路这个特殊的个体身上是魅力的东西,若到了其他门生身上,则往往是有害的。
六
晋の魏楡の地で石がものを言ったという。民の怨嗟の声が石を仮りて発したのであろうと、ある賢者が解した。既に衰微した周室は更に二つに分れて争っている。十に余る大国はそれぞれ相結び相闘って干戈の止む時が無い。斉侯の一人は臣下の妻に通じて夜ごとその邸に忍んで来る中についにその夫に弑せられてしまう。楚では王族の一人が病臥中の王の頸をしめて位を奪う。呉では足頸を斬取られた罪人共が王を襲い、晋では二人の臣が互いに妻を交換し合う。このような世の中であった。
传说晋国魏榆之地的石头开口说话了。据某位贤人的解释,是民众的怨嗟之声借石头发了出来。业已式微的周王室如今又一分为二,相争不下。十几个大国彼此或结盟友,或为敌国,干戈没有宁日。齐侯和臣下的妻子私通,在每晚潜入其宅的过程中终于被做丈夫的杀死。楚国某位王族趁国君卧病之时将其缢死,篡夺了王位。在吴国,被砍断脚的囚犯们袭击了国君。在晋国,两位大臣互相交换了妻子。这就是当时的世道。
魯の昭公は上卿季平子を討とうとしてかえって国を逐われ、亡命七年にして他国で窮死する。亡命中帰国の話がととのいかかっても、昭公に従った臣下共が帰国後の己の運命を案じ公を引留めて帰らせない。魯の国は季孫・叔孫・孟孫三氏の天下から、更に季氏の宰・陽虎の恣な手に操られて行く。
鲁昭公曾经试图讨伐上卿季平子,结果反遭放逐国外,亡命七年后在别国潦倒死去了。流亡中也有过回国的机会,但跟随昭公的大臣们由于担心自己的身家性命,硬是拦着昭公没有让他回去。鲁国先是成为季孙、叔孙、孟孙三氏的天下,接着更落入了季氏之宰阳虎恣意妄为的手中。
ところが、その策士陽虎が結局己の策に倒れて失脚してから、急にこの国の政界の風向きが変った。思いがけなく孔子が中都の宰として用いられることになる。公平無私な官吏や苛斂誅求8を事とせぬ政治家の皆無だった当時のこととて、孔子の公正な方針と周到な計画とはごく短い期間に驚異的な治績を挙げた。
但是,权谋家阳虎最终因自己的权谋而倒台后,这个国家政界的风向忽然为之一变了。孔子出乎意料地被起用为中都之宰。在几乎找不到公平无私的官吏和不贪赃枉法的政客的时代里,孔子公正的方针和周到的计划在短短时间内取得了令人难以置信的政绩。
すっかり驚嘆した主君の定公が問うた。汝の中都を治めし所の法をもって魯国を治むればすなわちいかん? 孔子が答えて言う。何ぞ但魯国のみならんや。天下を治むるといえども可ならんか。およそ法螺9とは縁の遠い孔子がすこぶる恭しい調子で澄ましてこうした壮語を弄したので、定公はますます驚いた。彼は直ちに孔子を司空に挙げ、続いて大司寇に進めて宰相の事をも兼ね摂らせた。孔子の推挙で子路は魯国の内閣書記官長とも言うべき季氏の宰となる。孔子の内政改革案の実行者として真先に活動したことは言うまでもない。
惊叹不已的定公不由问道:“以你治理中都的方法治理鲁国,将会怎样呢?”孔子回答:“何止鲁国,即便天下也可依此而治。”从来不说大话的孔子用恭敬的语调和冷静的态度说出这等豪言,令定公更加惊叹了。他立即推举孔子为司空,不久又擢升为大司寇,并使兼摄宰相之事。同时经孔子保荐,子路担任了相当于鲁国内阁秘书长一职的季氏之宰,作为孔子内政改革方案的直接执行人活跃在第一线上。
孔子の政策の第一は中央集権すなわち魯侯の権力強化である。このためには、現在魯侯よりも勢力を有つ季・叔・孟・三桓の力を削がねばならぬ。三氏の私城にして百雉(厚さ三丈、高さ一丈)を超えるものに郈・費・成の三地がある。まずこれ等を毀つことに孔子は決め、その実行に直接当ったのが子路であった。
孔子的首要政策是加强中央集权,也就是强化鲁侯的权力。为此必须削弱如今比鲁侯更有权势的季孙、叔孙、孟孙三桓的力量。三氏的私城中,超过百雉(厚三丈,高一丈)的共有郈、费、成三处,孔子决定首先将它们毁掉。负责直接执行的是子路。
自分の仕事の結果がすぐにはっきりと現れて来る、しかも今までの経験には無かったほどの大きい規模で現れて来ることは、子路のような人間にとって確かに愉快に違いなかった。殊に、既成政治家の張り廻らした奸悪な組織や習慣を一つ一つ破砕して行くことは、子路に、今まで知らなかった一種の生甲斐を感じさせる。
自己工作的结果能立刻清晰地展现眼前,并且是以未尝经验过的宏大规模展现出来,这对子路这样的人来说的确是愉快的。特别是在把既成势力的政客们四处布下的邪恶的机构与习惯一个个相继击破时,子路感到了一种前所未知的生命意义。
多年の抱負の実現に生々と忙しげな孔子の顔を見るのも、さすがに嬉しい。孔子の目にも、弟子の一人としてではなく一個の実行力ある政治家としての子路の姿が頼もしいものに映った。
此外,看到多年抱负即将实现的孔子那忙碌而充满生机的样子,也着实令人兴奋。在孔子眼里,子路也不再只是一名弟子,而是作为一位值得信赖的、富于实干才能的政治家映现出来。
費の城を毀しに掛かった時、それに反抗して公山不狃10という者が費人を率い魯の都を襲うた。武子台に難を避けた定公の身辺にまで叛軍の矢が及ぶほど、一時は危かったが、孔子の適切な判断と指揮とによって纔かに事無きを得た。
着手拆毁费城时,聚众反抗的公山不狃率领费人袭击了鲁国都城。最危急的时候,叛军箭羽几乎射到避难武子台上的定公身旁。但是靠着孔子准确的判断和指挥,局面终于化险为夷。
子路はまた改めて師の実際家的手腕に敬服する。孔子の政治家としての手腕は良く知っているし、またその個人的な膂力の強さも知ってはいたが、実際の戦闘に際してこれほどの鮮やかな指揮ぶりを見せようとは思いがけなかったのである。もちろん、子路自身もこの時は真先に立って奮い戦った。久しぶりに揮う長剣の味も、まんざら棄てたものではない。とにかく、経書の字句をほじくったり11古礼を習うたりするよりも、粗い現実の面と取組み合って生きて行く方が、この男の性に合っているようである。
子路又一次对老师作为实干家的本领心悦诚服。子路当然早就知晓孔子作为政治家的才能,也深知他武艺高强,但是却没有想到,在实际战斗中可以发挥出如此精彩的指挥水平。不用说,子路自己也身先士卒投入了战斗。久违的长剑的滋味,还真是令人难舍。总之,比起穷究经书、修习古礼来,和粗糙的现实直接搏斗的生活方式,更符合他的性情。
斉との間の屈辱的媾和12のために、定公が孔子を随えて斉の景公と夾谷の地に会したことがある。その時孔子は斉の無礼を咎めて、景公始め群卿諸大夫を頭ごなしに叱咤した。戦勝国たるはずの斉の君臣一同ことごとく顫え上ったとある。
某次,为了与齐国之间屈辱的媾和,定公携孔子与齐景公会于夹谷之地。会上,孔子一一指出齐国失礼之处,对景公及其手下的群卿诸大夫迎头痛斥,使战胜国齐国的君臣上下抖作了一团。
子路をして心からの快哉を叫ばしめるに充分な出来事ではあったが、この時以来、強国斉は、隣国の宰相としての孔子の存在に、あるいは孔子の施政の下もとに充実して行く魯の国力に、懼を抱き始めた。苦心の結果、誠にいかにも古代支那式な苦肉の策が採られた。すなわち、斉から魯へ贈るに、歌舞に長じた美女の一団をもってしたのである。こうして魯侯の心を蕩かし定公と孔子との間を離間しようとしたのだ。ところで、更に古代支那式なのは、この幼稚な策が、魯国内反孔子派の策動と相俟って、余りにも速く効を奏したことである。季桓子以下の大官連もこれに倣い出す。
这是件足以令子路从心底大呼“快哉”的事,然而从那以后,强齐对邻国宰相孔子的存在,以及在孔子施政下日益充实的鲁国国力开始警惕起来。苦思之下,极具古代中国特色的苦肉计被采纳了。齐国挑选了一群能歌善舞的美女,送到鲁国,试图以此纵荡鲁侯之心,离间定公和孔子的关系。更具古代中国特色的是,这条幼稚的计策与鲁国国内反孔子派的力量相结合,竟然立刻奏了效。鲁侯耽于女乐,不再上朝。季桓子以下的高官们也竞相模仿。
子路は真先に憤慨して衝突し、官を辞した。孔子は子路ほど早く見切をつけず、なお尽くせるだけの手段を尽くそうとする。子路は孔子に早く辞めてもらいたくて仕方が無い。師が臣節を汚すのを懼れるのではなく、ただこの淫らな雰囲気の中に師を置いて眺めるのが堪らないのである。
子路第一个愤怒难捺,一场冲突后辞了官。孔子没有子路那样早早死心,还在想尽一切可能的办法。子路则一心只想让孔子早些辞官不做。倒不是担心老师会玷污臣节,而是实在不堪忍受看到老师置身于那种淫乱的气氛中。
孔子の粘り強さもついに諦めねばならなくなった時、子路はほっとした。そうして、師に従って欣んで魯の国を立退いた。
当孔子的坚忍也终于不得不放弃时,子路长出了一口气。并且,欣然跟随老师离开了鲁国。
作曲家でもあり作詞家でもあった孔子は、次第に遠離り行く都城を顧みながら、歌う。
既是作曲家也是作词家的孔子,回望渐行渐远的都城,唱道——
かの美婦の口には君子ももって出走すべし。かの美婦の謁には君子ももって死敗すべし。…………
彼妇人之口,可以出走;彼妇人之请,可以死败……
かくて、爾後永年に亘る孔子の遍歴が始まる。
就这样,孔子开始了漫长的周游。
七
大きな疑問が一つある。子供の時からの疑問なのだが、成人になっても老人になりかかってもいまだに納得できないことに変りはない。それは、誰もが一向に怪しもうとしない事柄だ。邪が栄えて正が虐げられる13という・ありきたりの事実についてである。
有一个大疑问。从孩提时就为这个疑问感到困惑,而到了长大成人,甚至渐入老境后依然找不到答案。那是关于一种谁也不感到奇怪的现象,关于邪荣正凋这种处处可见的事实的疑问。
この事実にぶつかるごとに、子路は心からの悲憤を発しないではいられない。なぜだ? なぜそうなのだ? 悪は一時栄えても結局はその酬を受けると人は云う。なるほどそういう例もあるかも知れぬ。しかし、それも人間というものが結局は破滅に終るという一般的な場合の一例なのではないか。善人が究極の勝利を得たなどという例は、遠い昔は知らず、今の世ではほとんど聞いたことさえ無い。なぜだ? なぜだ? 大きな子供・子路にとって、こればかりは幾ら憤慨しても憤慨し足りないのだ。
每当碰到这种事情,子路就不由得从内心感到悲愤。为什么?为什么会这样?人们总说恶即使称快一时最终总会遭到报应。也许的确有那样的例子吧。但是,那难道不是人最终总会衰亡这种普遍性现象中的一个例子吗?善人得到最后胜利这种事,不知从前怎样,至少在当今世上几乎连听都没有听说过。为什么?为什么?对大孩子子路来说,唯有这个疑问怎么愤慨都嫌不够。
彼は地団駄を踏む思いで、天とは何だと考える。天は何を見ているのだ。そのような運命を作り上げるのが天なら、自分は天に反抗しないではいられない。天は人間と獣との間に区別を設けないと同じく、善と悪との間にも差別を立てないのか。正とか邪とかは畢竟人間の間だけの仮の取決に過ぎないのか? 子路がこの問題で孔子の所へ聞きに行くと、いつも決って、人間の幸福というものの真の在り方について説き聞かせられるだけだ。
他用捶胸顿足的心情,思考天是什么,天都看到了什么。如果是天制造了这种命运的话,自己只能反抗天了。就像在人和兽之间不设区别那样,天在善和恶之间也不设区别的吗?所谓正或邪,难道不过是人们之间暂时的约定吗?子路每次拿这个问题去问孔子,结果总是一样,被教育一通对人来说什么才是真正的幸福。
善をなすことの報は、では結局、善をなしたという満足の外には無いのか? 師の前では一応納得したような気になるのだが、さて退いて独りになって考えてみると、やはりどうしても釈然としない所が残る。そんな無理に解釈してみたあげくの幸福なんかでは承知出来ない。誰が見ても文句の無い・はっきりした形の善報が義人の上に来るのでなくては、どうしても面白くないのである。
可要是那样的话,对于为善的报答,除了为善这件事本身的满足感之外再没有别的了吗?当着老师的面,他似乎感到自己被说服了,可一旦退下思考起来,还是残留着无论如何不能释然的地方。那种经过勉强解释之后的幸福无法令人满意。如果义士不能得到清清楚楚看得见的、谁看了都无法说个“不”字的善报的话,一切就太没有意思了。
天についてのこの不満を、彼は何よりも師の運命について感じる。ほとんど人間とは思えないこの大才、大徳が、なぜこうした不遇に甘んじなければならぬのか。家庭的にも恵まれず、年老いてから放浪の旅に出なければならぬような不運が、どうしてこの人を待たねばならぬのか。
对上天的这种不满,他在老师的命运上感受得最为强烈。几乎不能相信是凡人的这位大才大德,为什么必须忍受这样的不遇呢?家庭也不美满,年老之后还不得不四处漂泊。这种不遇为什么非要落到这样的人身上呢?
一夜、「鳳鳥至らず。河、図を出さず。已んぬるかな。」と独言に孔子が呟くのを聞いた時、子路は思わず涙の溢れて来るのを禁じ得なかった。孔子が嘆じたのは天下蒼生のためだったが、子路の泣いたのは天下のためではなく孔子一人のためである。
有一晚,当听到孔子在自言自语“凤鸟不至,河图不出,吾已矣夫”时,子路忍不住热泪盈眶。孔子的慨叹是为了天下苍生,子路的哭泣不为天下,只为孔子一人。
この人と、この人を竢つ時世とを見て泣いた時から、子路の心は決っている。濁世のあるゆる侵害からこの人を守る楯となること。精神的には導かれ守られる代りに、世俗的な煩労汚辱を一切己が身に引受けること。僭越ながらこれが自分の務だと思う。学も才も自分は後学の諸才人に劣るかも知れぬ。しかし、いったん事ある場合真先に夫子のために生命を抛って顧みぬのは誰よりも自分だと、彼は自ら深く信じていた。
从为斯人、斯世洒泪的那天起,子路下定了决心。要做一面在浊世的所有侵害中保护斯人的盾牌。作为精神上获得指引和守护的回报,要用自己的身躯承担所有世俗的污辱和烦劳。就算是自不量力也罢,总之这是自己的使命。论才学,自己也许比不上后学的诸位才子,但是一旦有事,能为了夫子抛却性命在所不惜的却首先是自己。他深深地相信着这一点。
八
「ここに美玉あり。匱に韞めて蔵さんか。善賈を求めて沽らんか。」と子貢が言った時、孔子は即座に、「これを沽らん哉。これを沽らん哉。我は賈を待つものなり。」と答えた。
“有美玉于斯,韫椟而藏诸?求善贾而沽诸?”当子贡这么问时,孔子立刻答道:“沽之哉!沽之哉!我待贾者也。”
そういうつもりで孔子は天下周遊の旅に出たのである。随った弟子達も大部分はもちろん沽りたいのだが、子路は必ずしも沽ろうとは思わない。
孔子是抱着这种心情踏上周游列国的旅途的。不用问,跟随的弟子们大部分也都在待价而沽。但是子路却不这么想。
権力の地位に在って所信を断行する快さは既に先頃の経験で知ってはいるが、それには孔子を上に戴くといった風な特別な条件が絶対に必要である。それが出来ないなら、むしろ、「褐(粗衣)を被て玉を懐く」という生き方が好ましい。生涯孔子の番犬に終ろうとも、いささかの悔くいも無い。世俗的な虚栄心が無い訳ではないが、なまじいの仕官はかえって己の本領たる磊落闊達を害するものだと思っている。
通过上次的经验,他已经体会到了在有实权的位置上断然推行自己信念的快感,可这里有一个特殊的前提条件,那就是一定得是在孔子手下。如果做不到那样的话,自己宁可选择“布衣怀瑾”的活法。即便终身做孔子的门下犬,也不会感到丝毫悔恨。世俗的虚荣心虽然并非没有,但勉强做官只会损害自己独有的磊落阔达。
様々な連中が孔子に従って歩いた。てきぱきした実務家の冉有。温厚の長者閔子騫。穿鑿好きな故実家の子夏。いささか詭弁派的な享受家宰予。気骨稜々たる慷慨家の公良孺。身長九尺六寸といわれる長人孔子の半分位しかない短矮な愚直者子羔。年齢から云っても貫禄から云っても、もちろん子路が彼等の宰領格である。
有各式各样的人追随着孔子的旅途。果断利落的实务家冉有。温柔敦厚的长者闵子骞。性喜穿凿的掌故家子夏。带点诡辩色彩的享乐主义者宰予。气骨棱棱的壮士公良儒。五短身材,只到传说中身高九尺六寸的大高个孔子腰间的老实人子羔。无论从年龄,还是从威望,子路无疑都具备是他们领队的资格。
子路より二十二歳も年下ではあったが、子貢という青年は誠に際立った才人である。孔子がいつも口を極めて賞める顔回よりも、むしろ子貢の方を子路は推したい気持であった。
比子路年轻二十二岁的子贡是位引人注目的才子。比起孔子总是赞不绝口的颜回,子路不如说更推许子贡。
孔子からその強靱な生活力と、またその政治性とを抜き去ったような顔回という若者を、子路は余り好まない。それは決して嫉妬ではない。(子貢子張輩は、顔淵に対する・師の桁外れの打込み方に、どうしてもこの感情を禁じ得ないらしいが。)子路は年齢が違い過ぎてもいるし、それに元来そんな事に拘わらぬ性でもあったから。ただ、彼には顔淵の受動的な柔軟な才能の良さが全然呑み込めないのである。
颜回就象是从孔子身上抽掉了强韧的生活力和政治性之后的又一个孔子,但子路并不太喜欢他。这不是出于嫉妒(虽然子贡、子张之辈看到老师对颜回那种不同寻常的热衷,似乎怎么也抑制不住这种感情)。子路和他们的年龄都相差太远,并且天生是对这些事不在意的个性。他只是完全搞不懂颜回那种被动型的柔软才能究竟好在哪里。
第一、どこかヴァイタルな力の欠けている所が気に入らない。そこへ行くと、多少軽薄ではあっても常に才気と活力とに充ちている子貢の方が、子路の性質には合うのであろう。この若者の頭の鋭さに驚かされるのは子路ばかりではない。頭に比べてまだ人間の出来ていないことは誰にも気付かれる所だが、しかし、それは年齢というものだ。余りの軽薄さに腹を立てて一喝を喰わせることもあるが、大体において、後世畏るべしという感じを子路はこの青年に対して抱いている。
首先,光是缺少活力这一点就看不下去。要说这个,虽然有些轻浮,但总是充满才气与活力的子贡更对子路的脾气。这个年轻人头脑之敏锐,不光是让子路一个人感到吃惊。虽然很明显,和头脑相比,人格还远未成熟,但那是年龄的问题。有时子路也会因对方过于轻浮而忍不住给他当头棒喝,但大体上,对这个年轻人抱着一种后生可畏的感情。
ある時、子貢が二三の朋輩に向って次のような意味のことを述べた。――夫子は巧弁を忌むといわれるが、しかし夫子自身弁が巧過ぎると思う。これは警戒を要する。宰予などの巧さとは、まるで違う。宰予の弁のごときは、巧さが目に立ち過ぎる故、聴者に楽しみは与え得ても、信頼は与え得ない。それだけにかえって安全といえる。夫子のは全く違う。流暢さの代りに、絶対に人に疑を抱かせぬ重厚さを備え、諧謔の代りに、含蓄に富む譬喩を有つその弁は、何人といえども逆らうことの出来ぬものだ。もちろん、夫子の云われる所は九分九厘まで常に謬り無き真理だと思う。また夫子の行われる所は九分九厘まで我々の誰もが取ってもって範とすべきものだ。にもかかわらず、残りの一厘――絶対に人に信頼を起させる夫子の弁舌の中の・わずか百分の一が、時に、夫子の性格の(その性格の中の・絶対普遍的な真理と必ずしも一致しない極少部分の)弁明に用いられる惧れがある。警戒を要するのはここだ。これはあるいは、余り夫子に親しみ過ぎ狎れ過ぎたための慾の云わせることかも知れぬ。実際、後世の者が夫子をもって聖人と崇めた所で、それは当然過ぎる位当然なことだ。夫子ほど完全に近い人を自分は見たことがないし、また将来もこういう人はそう現れるものではなかろうから。ただ自分の言いたいのは、その夫子にしてなおかつかかる微小ではあるが・警戒すべき点を残すものだという事だ。顔回のような夫子と似通った肌合の男にとっては、自分の感じるような不満は少しも感じられないに違いない。夫子がしばしば顔回を讃められるのも、結局はこの肌合のせいではないのか。…………
某次,子贡对二三朋辈发表了这样的意见。——夫子虽然说忌讳巧辨,但夫子自己的辩才就过于巧妙。这是需要警惕的。和宰予的巧妙完全不同。宰予的辩才因为技巧过于触目,所以会带给听者享受,却不会带来信赖。因此反而安全。但夫子完全不一样。他的辨才不流畅,但有着绝不令人生疑的厚重;不谐谑,但拥有含蓄深刻的譬喻,因此无论任何人都无法抵挡。当然,夫子的话,至少九分九厘都是准确的真理;夫子的行为,也至少九分九厘都值得我们作为楷范。但尽管如此,剩下的一厘——让人绝对信赖的夫子的辨才中的、仅仅百分之一——有时不免会被用来作对夫子性格(他的性格中,与普遍绝对的真理不尽一致的极微小部分)的辩护。需要警惕的正是这里。这么说,也许是因为与夫子过于亲密、过于狎熟而产生的求全责备。其实,即使后世的人把夫子崇奉为圣人,那也是理所当然的。自己还从没有见过象夫子这样近乎完美的人,并且将来也未必会再出现这样的人。只不过,我想说的是,即使是这样的夫子,身上也还留有虽然细微、但需要警惕的地方。像颜回那样和夫子肌理相近的人,肯定感觉不到我所感到的这种不满。夫子屡屡称赞颜回,结果还不是因为这种肌理的相近吗?……
青二才14の分際で師の批評などおこがましいと腹が立ち、また、これを言わせているのは畢竟顔淵への嫉妬だとは知りながら、それでも子路はこの言葉の中に莫迦にしきれないものを感じた。肌合の相違ということについては、確かに子路も思い当ることがあったからである。おれ達には漠然としか気付かれないものをハッキリ形に表す・妙な才能が、この生意気な若僧にはあるらしいと、子路は感心と軽蔑とを同時に感じる。
“黄口小儿竟对老师说三道四!”在旁听到的子路不由得有些恼怒。同时他也知道,子贡说这些话最终还是出于对颜回的嫉妒。但虽然如此,他还是感到这些话里有不可小瞧的地方。因为对肌理相近相远这一点,子路自己也曾经有所觉察。他看出在这个自以为是的小子身上有一种奇妙的才能,能够把自己这些人只能模模糊糊感觉到的事给清清楚楚地表达出来,对此感到既佩服又轻蔑。
子貢が孔子に奇妙な質問をしたことがある。「死者は知ることありや? 将た15知ることなきや?」死後の知覚の有無、あるいは霊魂の滅不滅についての疑問である。
子贡曾经向孔子提出过奇特的问题:“死者有知乎?无知乎?”这是关于死后是否有知觉,或者灵魂是否不灭的问题。
孔子がまた妙な返辞をした。「死者知るありと言わんとすれば、まさに孝子順孫、生を妨げてもって死を送らんとすることを恐る。死者知るなしと言わんとすれば、まさに不孝の子その親を棄てて葬らざらんとすることを恐る。」およそ見当違いの返辞なので子貢は甚だ不服だった。もちろん、子貢の質問の意味は良く判っているが、あくまで現実主義者、日常生活中心主義者たる孔子は、この優れた弟子の関心の方向を換えようとしたのである。
孔子的回答也很奇特:“吾欲言有知,将恐孝子贤孙妨生以送死;吾欲言无知,将恐不孝之子弃其亲而不葬。”答案和问题风马牛不相及,子贡心里很是不满。孔子当然清楚子贡提问的意图,但始终是现实主义者、日常生活中心论者的他试图用这样的回答,扭转这位优秀的弟子所关注的方向。
子貢は不満だったので、子路にこの話をした。子路は別にそんな問題に興味は無かったが、死そのものよりも師の死生観を知りたい気がちょっとしたので、ある時死について訊ねてみた。
子贡由于不满,把这件事讲给了子路。子路对这种问题虽然并没有什么兴趣,但比起死本身来,多少有点想要知道老师的生死观,于是趁某次询问问了死的问题。
「いまだ生を知らず。いずくんぞ16死を知らん。」これが孔子の答であった。
孔子的回答是:“未知生,焉知死。”
全くだ! と子路はすっかり感心した。しかし、子貢はまたしても鮮やかに肩透し17を喰ったような気がした。それはそうです。しかし私の言っているのはそんな事ではない。明らかにそう言っている子貢の表情である。
正是这样!子路彻底心服了。但是子贡却感到自己又被巧妙地闪了个空。“那是不错,可我说的并不是那回事。”子贡脸上的表情明显这么写着不满。
九
衛の霊公は極めて意志の弱い君主である。賢と不才とを識別し得ないほど愚かではないのだが、結局は苦い諫言よりも甘い諂諛に欣ばされてしまう。衛の国政を左右するものはその後宮であった。
卫国的灵公是位意志薄弱的君主。虽然并没有愚蠢到分辨不出贤与不贤的地步,但比起苦涩的谏言,他还是会被甘甜的谄媚所迷惑。左右卫国国政的是他的后宫。
夫人南子はつとに18淫奔の噂が高い。まだ宋の公女だった頃異母兄の朝という有名な美男と通じていたが、衛侯の夫人となってからもなお宋朝を衛に呼び大夫に任じてこれと醜関係を続けている。
夫人南子夙有淫奔之名。还是宋国公主的时候,就和异母兄长、名叫朝的美男子私通,成了卫侯夫人后又把宋朝招到卫国委以大夫,继续保持着不堪的关系。
すこぶる才走った女で、政治向の事にまで容喙するが、霊公はこの夫人の言葉なら頷かぬことはない。霊公に聴かれようとする者はまず南子に取入るのが例であった。
她还是个才气外露的女人,在政治方面也常插嘴干预,灵公对这位夫人可谓言听计从。想得到灵公赏识,先要取悦南子,这已经成了惯例。
孔子が魯から衛に入った時、召を受けて霊公には謁したが、夫人の所へは別に挨拶に出なかった。南子が冠を曲げた。早速人を遣わして孔子に言わしめる。四方の君子、寡君と兄弟たらんと欲する者は、必ず寡小君(夫人)を見る。寡小君見んことを願えり云々。
孔子由鲁入卫时,虽然受召拜谒了灵公,但并没有特别到夫人那里拜候。南子十分不快,立刻派人向孔子提醒:“四方君子,欲与寡君为兄弟者,必先参见寡小君(夫人)。有请一见。”
孔子もやむをえず挨拶に出た。南子は絺帷(薄い葛布の垂れぎぬ)の後に在って孔子を引見する。孔子の北面稽首の礼に対し、南子が再拝して応えると、夫人の身に着けた環佩が璆然として鳴ったとある。
不得已,孔子前往问候。南子在帷帐后引见孔子。当孔子行北面稽首之礼,南子再拜还礼时,夫人身上的环佩珰然作响。
孔子が公宮から帰って来ると、子路が露骨に不愉快な顔をしていた。彼は、孔子が南子風情の要求などは黙殺することを望んでいたのである。まさか孔子が妖婦にたぶらかされるとは思いはしない。しかし、絶対清浄であるはずの夫子が汚らわしい淫女に頭を下げたというだけで既に面白くない。美玉を愛蔵する者がその珠の表面に不浄なるものの影の映るのさえ避けたい類なのであろう。
孔子从王宫回来后,子路显出一脸露骨的不快神情。他原希望孔子会对南子卖弄风情的要求置之不理的。当然他决不认为孔子会上妖妇的圈套,但本该绝对洁净的夫子哪怕在污秽的淫女面前低一下头,也是令人不快的。就好像珍藏着美玉的人,连对美玉的表面被映上什么不洁之物的影子都会避之唯恐不及一样。
孔子はまた、子路の中で相当敏腕な実際家と隣り合って住んでいる大きな子供が、いつまでたっても一向老成しそうもないのを見て、可笑しくもあり、困りもするのである。
孔子又一次在子路身上看到,和精明能干的实干家比邻而居的那个大孩子不管到什么时候也不会老成,不由又是好笑,又是为难。
一日、霊公の所から孔子へ使が来た。車で一緒に都を一巡しながら色々話を承ろうと云う。孔子は欣んで服を改め直ちに出掛けた。
一天,灵公向孔子派来一名使者,说是想要一同登车巡城,同时就各种问题请教。孔子欣然换好衣服,立刻出发了。
この丈の高いぶっきらぼうな爺さんを、霊公が無闇に賢者として尊敬するのが、南子には面白くない。自分を出し抜いて、二人同車して都を巡るなどとはもっての外である。
这位个子高大、一本正经的老爷子,虽然灵公把他看成贤者毕恭毕敬,南子心里却觉得十分无趣。两人抛下自己去同车巡游,则更是岂有此理。
孔子が公に謁し、さて表に出て共に車に乗ろうとすると、そこには既に盛装を凝らした南子夫人が乗込んでいた。孔子の席が無い。南子は意地の悪い微笑を含んで霊公を見る。
孔子谒见过灵公后,来到外面,正要一同登车,却见浓妆艳抹的南子已经坐在了车内。没有孔子的座位。南子带着不怀好意的微笑注视着灵公。
孔子もさすがに不愉快になり、冷やかに公の様子を窺う。霊公は面目無げに目を俯せ、しかし南子には何事も言えない。黙って孔子のために次の車を指さす。
孔子也满心不快,冷眼旁观着灵公的举动。灵公羞愧地垂下了眼睛,但是对南子什么也没敢说,只默默地把第二辆车指给了孔子。
二乗の車が衛の都を行く。前なる四輪の豪奢な馬車には、霊公と並んで嬋妍たる南子夫人の姿が牡丹の花のように輝く。後の見すぼらしい二輪の牛車には、寂しげな孔子の顔が端然と正面を向いている。沿道の民衆の間にはさすがに秘やかな嘆声と顰蹙とが起る。
两辆车行走在卫国都城。前面那辆豪华的四轮马车里,和灵公并肩而坐的南子夫人好象牡丹花一样娇妍夺目。后面那辆寒酸的二轮牛车里,神情寂廖的孔子面朝前方,端然正座。沿途的民众里有人低声叹息,有人暗皱眉头。
群集の間に交って子路もこの様子を見た。公からの使を受けた時の夫子の欣びを目にしているだけに、腸の煮え返る思いがするのだ。
人群里的子路也看到了这副情景。回想刚才接到灵公使者时夫子欢快的表情,他心如刀绞。
何事か嬌声を弄しながら南子が目の前を進んで行く。思わず嚇となって、彼は拳を固め人々を押分けて飛出そうとする。背後から引留める者がある。振切ろうと眼を瞋らせて後を向く。子若と子正の二人である。必死に子路の袖を控えている二人の眼に、涙の宿っているのを子路は見た。子路は、ようやく振上げた拳を下す。
这时,故弄娇声的南子正好从眼前经过。子路不由得大怒,握紧拳头分开人群就要冲出去,不料却被人从背后拽住了。他瞪着眼回头想要将对方甩开,原来却是子若和子正二人。拼命拽住子路衣袖的两个人的眼睛里,都噙满了泪水。看到这样,子路才慢慢放下了挥起的拳头。
翌日、孔子等の一行は衛を去った。「我いまだ徳を好むこと色を好むがごとき者を見ざるなり。」というのが、その時の孔子の嘆声である。
第二天,孔子一行离开了卫国。“吾未见好德如好色者也。”这是孔子此时发出的感叹。
十
葉公子高は竜を好むこと甚だしい。居室にも竜を雕り繍帳にも竜を画き、日常竜の中に起臥していた。これを聞いたほん物の天竜が大きに欣んで一日葉公の家に降り己の愛好者を覗き見た。頭は牖に窺い尾は堂に拖くという素晴らしい大きさである。葉公はこれを見るや怖れわなないて逃げ走った。その魂魄を失い五色主無し、という意気地無さであった。
叶公子高很喜欢龙。他在居室里刻上龙,在帷帐上绣着龙,每天生活在龙的中间。天上的真龙听说此事大喜过望,一日飞降到叶公家里,要一睹自己的崇拜者。真龙体格雄伟,龙头钻出窗口,龙尾还拖在堂前。叶公见后周身战栗,落荒而走,失魂落魄,六神无主。
諸侯は孔子の賢の名を好んで、その実を欣ばぬ。いずれも葉公の竜における類である。実際の孔子は余りに彼等には大き過ぎるもののように見えた。孔子を国賓として遇しようという国はある。孔子の弟子の幾人かを用いた国もある。が、孔子の政策を実行しようとする国はどこにも無い。匡では暴民の凌辱を受けようとし、宋では姦臣の迫害に遭い、蒲ではまた兇漢の襲撃を受ける。諸侯の敬遠と御用学者の嫉視と政治家連の排斥とが、孔子を待ち受けていたもののすべてである。
诸侯好孔子的贤名,却不好他的内实,结果无一不是叶公好龙之流。真实的孔子对于他们来说过于高大了。有愿意将孔子奉为国宾的国家,也有起用了孔子几名弟子的国家。但是,愿意实行孔子政策的国家,却连一个也没有。在匡地险受暴民凌辱,在宋国遭到奸臣迫害,在蒲地又遇上歹徒袭击。诸侯的敬而远之、御用学者的妒忌、政客的排挤,这些就是等待着孔子的一切。
それでもなお、講誦を止めず切磋を怠らず、孔子と弟子達とは倦まずに国々への旅を続けた。「鳥よく木を択ぶ。木豈に鳥を択ばんや。」などと至って気位は高いが、決して世を拗ねたのではなく、あくまで用いられんことを求めている。そして、己等の用いられようとするのは己がために非ずして天下のため、道のためなのだと本気で――全く呆れたことに本気でそう考えている。乏しくとも常に明るく、苦しくとも望を捨てない。誠に不思議な一行であった。
即便这样,孔子也和弟子们讲诵不止,切磋不怠,不知疲倦地从一个国家漂泊到另一个国家。“良禽择木而栖,木岂能择禽乎?”孔子这句话气节高远,但决不是恨世之言,始终还是寻求为世所用。并且,寻求为世所用不是为了自己,而是为了天下,为了道——老师和弟子们全都发自内心地这么想。困穷时依然明快,艰苦时也不舍希望。这真是不可思议的一行人。
一行が招かれて楚の昭王の許へ行こうとした時、陳・蔡の大夫共が相計り秘かに暴徒を集めて孔子等を途に囲ましめた。孔子の楚に用いられることを惧れこれを妨げようとしたのである。
孔子一行受到邀请,准备前往楚昭王那里时,陈国和蔡国的大夫们秘密召集暴徒,将孔子他们围困在了途中。这是因为担心孔子为楚所用,所以故意设计陷害。
暴徒に襲われるのはこれが始めてではなかったが、この時は最も困窮に陥った。糧道が絶たれ、一同火食せざること七日に及んだ。さすがに、餒え、疲れ、病者も続出する。弟子達の困憊と恐惶との間に在って孔子は独り気力少しも衰えず、平生通り絃歌して輟まない。
遭到暴徒袭击并不是第一次,但这次陷入了最深的困顿。粮道被切断,接连七天炊烟不起。饥饿、疲惫、生病的人层出不穷。但是在弟子们的困惫和惶恐中,唯独孔子仍然精神饱满,像往常一样弦歌不辍。
従者等の疲憊を見るに見かねた子路が、いささか色を作して、絃歌する孔子の側に行った。そうして訊ねた。夫子の歌うは礼かと。
子路看不过众人疲惫的样子,稍带怒容地走到正在弦歌的孔子身边,问道:“夫子此时弦歌,算是礼吗?”
孔子は答えない。絃を操る手も休めない。さて曲が終ってからようやく言った。「由よ。吾汝に告げん。君子楽を好むは驕るなきがためなり。小人楽を好むは懾るるなきがためなり。それ誰の子ぞや。我を知らずして我に従う者は。」
孔子没有回答,操弦的手也没有停下。一曲终了,他开口说道:“由啊,让我来告诉你。君子爱音乐是为了不骄傲;小人爱音乐是为了无所顾忌。那不了解我却跟随我的,是谁家的孩子啊?”
子路は一瞬耳を疑った。この窮境に在ってなお驕るなきがために楽をなすとや? しかし、すぐにその心に思い到ると、途端に彼は嬉しくなり、覚えず戚を執って舞うた。孔子がこれに和して弾じ、曲、三度めぐった。傍にある者またしばらくは飢を忘れ疲を忘れて、この武骨な即興の舞に興じ入るのであった。
子路险些不敢相信自己的耳朵。置身这样的困境中,竟然还为了不骄傲而奏乐?但他马上体会了夫子的心意,顿时大喜,不觉手执干戚舞了起来。孔子鼓琴与之相和,乐曲重复了三遍。一旁的众人也暂时忘掉了饥饿和疲惫,陶醉在这粗豪的即兴之舞中。
同じ陳蔡の厄の時、いまだ容易に囲みの解けそうもないのを見て、子路が言った。君子も窮することあるか?と。師の平生の説によれば、君子は窮することが無いはずだと思ったからである。
同样是在陈蔡之厄时,看到轻易无法解围,子路问过这样的话:“君子也有穷时吗?”因为如果按老师平日的主张,君子应该是没有穷时的。
孔子が即座に答えた。「窮するとは道に窮するの謂に非ずや。今、丘、仁義の道を抱き乱世の患に遭う。何ぞ窮すとなさんや。もしそれ、食足らず体瘁るるをもって窮すとなさば、君子ももとより窮す。但、小人は窮すればここに濫る。」と。そこが違うだけだというのである。
孔子立刻答道:“‘穷’难道不是穷于道之谓吗?如今丘怀仁义之道,遭乱世之患,这哪能算是穷呢?如果以衣食不周为‘穷’的话,那么君子固穷。而小人穷斯滥也。”
子路は思わず顔を赧らめた。己の内なる小人を指摘された心地である。窮するも命なることを知り、大難に臨んでいささかの興奮の色も無い孔子の容を見ては、大勇なる哉と嘆ぜざるを得ない。かつての自分の誇であった・白刃前に接わるも目まじろがざる底の勇が、何と惨めにちっぽけなことかと思うのである。
子路不由得脸红了。他感到自己身上的小人被指了出来。以困穷为命运,临大难而不动声色,看到这样的孔子,他不得不感叹“大哉勇也”。相形之下,以前自己所引以为豪的白刃加睫而目不转睛的勇,实在是渺小得可怜。
十一
許から葉へと出る途すがら、子路が独り孔子の一行に遅れて畑中の路を歩いて行くと、蓧を荷うた一人の老人に会った。
从许国前往楚国叶邑的路上,子路落到了队伍后面。当他独自走在田埂小路上时,遇到一位背着竹筐的老丈。
子路が気軽に会釈して、夫子を見ざりしや、と問う。
子路轻快地行了一礼,问道:“请问,可曾见到夫子吗?”
老人は立止って、「夫子夫子と言ったとて、どれが一体汝のいう夫子やら俺に分る訳がないではないか」と突堅貪に答え、子路の人態をじろりと眺めてから、「見受けたところ、四体を労せず実事に従わず空理空論に日を暮らしている人らしいな。」と蔑むように笑う。それから傍の畑に入りこちらを見返りもせずにせっせと草を取り始めた。
老人停下脚步,不客气地说:“夫子夫子,俺怎么知道什么是你的夫子。”接着,他仔细打量了子路一番,又轻蔑地笑道:“看起来你是个四体不勤,五谷不分,整天泡在空理空论里的人呐。”说完,走到旁边的田里,再也不朝这边看上一眼,刷刷地拔起草来。
隠者の一人に違いないと子路は思って一揖し、道に立って次の言葉を待った。
子路想:“这肯定是位隐者了。”于是深深一揖,站在路边等待他接下来的话。
老人は黙って一仕事してから道に出て来、子路を伴って己が家に導いた。既に日が暮れかかっていたのである。老人はを雞つぶし黍を炊いで、もてなし、二人の子にも子路を引合せた。食後、いささかの濁酒に酔の廻った老人は傍なる琴を執って弾じた。二人の子がそれに和して唱う。
老人无言地工作了一会儿后,又来到路上,把子路带回了自己家里。已经是日暮西山的时候了。老人杀鸡炊黍款待子路,并把两个儿子叫出来和他相见。饭后,被几杯浊酒带来少许醉意的老人取过身旁的琴弹奏了起来,两个儿子应声唱和道——
湛々タル露アリ 陽ニ非ザレバ晞ズ
湛湛露斯,匪阳不晞。
厭々トシテ夜飲ス 酔ハズンバ帰ルコトナシ
厌厌夜饮,不醉无归。
明らかに貧しい生活なのにもかかわらず、まことに融々たる裕かさが家中に溢れている。和やかに充ち足りた親子三人の顔付の中に、時としてどこか知的なものが閃くのも、見逃し難い。
虽然一望可知,这是贫寒的生活,但是家里洋溢着一种富足的融融之乐。父子三人和谐满足的表情中,不时闪过一丝智慧的闪光,令人无法忽视。
弾じ終ってから老人が子路に向って語る。陸を行くには車、水を行くには舟と昔から決ったもの。今陸を行くに舟をもってすれば、いかん? 今の世に周の古法を施そうとするのは、ちょうど陸に舟を行るがごときものと謂うべし。猨狙に周公の服を着せれば、驚いて引裂き棄てるに決っている。云々…………子路を孔門の徒と知っての言葉であることは明らかだ。
弹罢一曲,老人向子路说道:“陆路行车,水路行船,这是自古以来的规矩。如果硬要旱地行舟,会怎样呢?在当今世上,想要推行周代的古法,正象是旱地行舟一样。就算给猴子穿上周公的衣服,猴子不大吃一惊撕个粉碎才怪呢。”很显然,老人知道子路是孔门之徒才说的这番话。
老人はまた言う。「楽しみ全くして始めて志を得たといえる。志を得るとは軒冕の謂ではない。」
老人接着又道:“保全快乐才称得上得志。得志可不只是轩冕之谓啊。”
と。澹然無極とでもいうのがこの老人の理想なのであろう。子路にとってこうした遁世哲学は始めてではない。長沮・桀溺の二人にも遇った。楚の接与という佯狂の男にも遇ったことがある。しかしこうして彼等の生活の中に入り一夜を共に過したことは、まだ無かった。穏やかな老人の言葉と怡々たるその容に接している中に、子路は、これもまた一つの美しき生き方には違いないと、幾分の羨望をさえ感じないではなかった。
看来,澹然无极才是这位老人的理想吧。这种遁世哲学,子路并不是第一次听到。以前他遇到过长沮、桀溺两位隐士,在楚国也曾遇到名叫接舆的佯狂的男子。但是像这样进入他们的生活中共度一夜还是头一次。在老人平和的话语和怡然的容态面前,子路不禁感到这无疑也是一种美好的生活方式,甚至生出了几分羡慕。
しかし、彼も黙って相手の言葉に頷いてばかりいた訳ではない。「世と断つのはもとより楽しかろうが、人の人たるゆえんは楽しみを全うする所にあるのではない。区々たる一身を潔うせんとして大倫を紊るのは、人間の道ではない。我々とて、今の世に道の行われない事ぐらいは、とっくに承知している。今の世に道を説くことの危険さも知っている。しかし、道無き世なればこそ、危険を冒してもなお道を説く必要があるのではないか。」
但是,对于对方的话他并没有只是唯唯喏喏:“与世隔绝固然快乐。但是人之所以为人,并不在于保全一己之快乐。为了区区一身的洁白,而紊乱大伦,不是作为人的正道。我们早就知道,当今世上大道难行,甚至也知道在当今世上讲‘道’的危险。但正因为是无道之世,不才更需要冒危险去讲‘道’吗?”
翌朝、子路は老人の家を辞して道を急いだ。みちみち孔子と昨夜の老人とを並べて考えてみた。孔子の明察があの老人に劣る訳はない。孔子の慾があの老人よりも多い訳はない。それでいてなおかつ己を全うする途を棄て道のために天下を周遊していることを思うと、急に、昨夜は一向に感じなかった憎悪を、あの老人に対して覚え始めた。
翌晨,子路辞别老人家后急忙赶路。在路上,他在心里反复比较着孔子和昨夜那位老人。孔子的明察不劣于那位老人。孔子的欲望也不多于那位老人。虽然如此,孔子还是放弃全身之途,而是为了道周游天下。想到这里,他忽然对那位老人感到一种昨天未曾感到的厌恶。
午近く、ようやく、遥か前方の真青な麦畠の中の道に一団の人影が見えた。その中で特に際立って丈の高い孔子の姿を認め得た時、子路は突然、何か胸を緊め付けられるような苦しさを感じた。
将近午时,他终于在前方远处碧绿的麦田的小路上看到了一群人影。当认出在里面显得尤其高大的孔子的身影时,子路突然感到一种胸口被紧紧揪住的痛苦。
十二
宋から陳に出る渡船の上で、子貢と宰予とが議論をしている。
从宋国去陈国的渡船上,子贡和宰予有过一场辩论。
「十室の邑、必ず忠信丘がごとき者あり。丘の学を好むに如かざるなり。」という師の言葉を中心に、子貢は、この言葉にもかかわらず孔子の偉大な完成はその先天的な素質の非凡さに依るものだといい、宰予は、いや、後天的な自己完成への努力の方が与って大きいのだと言う。
争论焦点是老师的一句话:“十室之邑,必有忠信如丘者焉。不如丘之好学也。”子贡认为虽然有这句话,但孔子伟大的成就还是来源于他先天的非凡素质。宰予则曰不然,认为孔子朝着自我完成付出的后天性努力发挥了更大作用。
宰予によれば、孔子の能力と弟子達の能力との差異は量的なものであって、決して質的なそれではない。孔子の有っているものは万人のもっているものだ。ただその一つ一つを孔子は絶えざる刻苦によって今の大きさにまで仕上げただけのことだと。子貢は、しかし、量的な差も絶大になると結局質的な差と変る所は無いという。それに、自己完成への努力をあれほどまでに続け得ることそれ自体が、既に先天的な非凡さの何よりの証拠ではないかと。だが、何にも増して孔子の天才の核心たるものは何かといえば、「それは」と子貢が言う。「あの優れた中庸への本能だ。いついかなる場合にも夫子の進退を美しいものにする・見事な中庸への本能だ。」と。
按宰予的说法,孔子和弟子们之间能力的差异是量的差异,而决不是质的。孔子所具有的东西,为万人所共有,只不过由于不断的刻苦,孔子把它们每一种都发展到了今天这样伟大的程度。子贡则主张说,量的差异积累到绝对大的时候,就是质的差异。况且,能朝着自我的完成,像那样不断付出努力,这本身就是先天性的非凡素质的最大证据。但是,比起其他一切,要问孔子的天才的核心是什么的话,“那就是,”子贡说道,“对中庸的杰出本能。不论何时何地,都使夫子的进退举措充满美感的对于中庸的优秀本能。”
何を言ってるんだと、傍で子路が苦い顔をする。口先ばかりで腹の無い奴等め! 今この舟がひっくり返りでもしたら、奴等はどんなに真蒼な顔をするだろう。何といってもいったん有事の際に、実際に夫子の役に立ち得るのはおれなのだ。
“什么话!”子路在一旁满脸不快。“只会在嘴上夸夸其谈的家伙们!如果现在这艘船翻了的话,不知道他们会吓成什么草包样子。不管怎样,一旦有事的时候,真正能为夫子立功的只有我。”
才弁縦横の若い二人を前にして、巧言は徳を紊るという言葉を考え、矜らかに我が胸中一片の氷心を恃むのである。
在高谈阔论的两位后生小子面前,他回忆着夫子“巧言乱德”的话,暗暗自矜于胸中一片冰心。
子路にも、しかし、師への不満が必ずしも無い訳ではない。
但是,子路也并非完全没有对老师的不满。
陳の霊公が臣下の妻と通じその女の肌着を身に着けて朝に立ち、それを見せびらかした時、泄冶という臣が諫めて、殺された。百年ばかり以前のこの事件について一人の弟子が孔子に尋ねたことがある。泄冶の正諫して殺されたのは古の名臣比干の諫死と変る所が無い。仁と称して良いであろうかと。
陈灵公与臣下之妻私通,并穿着那名妇人的内衣在朝堂上向众臣炫耀;名叫泄冶的大臣上谏而遭到杀害。围绕百年前的这个事件,有个弟子曾经向孔子询问:“泄冶因正谏而被杀,几乎像古代名臣比干的死谏一样。应该可以称为仁了吧?”
孔子が答えた。いや、比干と紂王との場合は血縁でもあり、また官から云っても少師であり、従って己の身を捨てて争諫し、殺された後に紂王の悔寤するのを期待した訳だ。これは仁と謂うべきであろう。泄冶の霊公におけるは骨肉の親あるにも非ず、位も一大夫に過ぎぬ。君正しからず一国正しからずと知らば、潔く身を退くべきに、身の程をも計らず、区々たる一身をもって一国の淫婚を正そうとした。自ら無駄に生命を捐てたものだ。仁どころの騒ぎではないと。
孔子答道:“非也。比干与纣王是近亲,官职又高居少师之位,所以舍身上谏,期待自己死后纣王能有所悔悟。这可以称之为仁。但泄冶与灵公既非骨肉之亲,官职又不过一大夫,知道君不正、国不正,就该洁身自退才对。自不量力地试图以区区一身正一国之淫风,结果白白送了性命。哪能说得上是仁呢。”
その弟子はそう言われて納得して引き下ったが、傍にいた子路にはどうしても頷けない。早速、彼は口を出す。仁・不仁はしばらく措く。しかしとにかく一身の危きを忘れて一国の紊乱を正そうとした事の中には、智不智を超えた立派なものが在るのではなかろうか。空しく命を捐つなどと言い切れないものが。たとえ結果はどうあろうとも。
那名弟子听后点头退下了,可待在一旁的子路却无法点头,立刻插嘴说道:“仁不仁暂且不说。但不顾自身安危地去匡正一国之淫乱,难道不是件了不起的事吗?不管结果怎样,怎么可以用智或不智衡量,说他是白白送了性命呢?”
「由よ。汝には、そういう小義の中にある見事さばかりが眼に付いて、それ以上は判らぬと見える。古の士は国に道あれば忠を尽くしてもってこれを輔け、国に道無ければ身を退いてもってこれを避けた。こうした出処進退の見事さはいまだ判らぬと見える。詩に曰う。民僻多き時は自ら辟を立つることなかれと。蓋し19、泄冶の場合にあてはまるようだな。」
“由啊,你只看得到这些小的忠义,却看不到比它更深远的事情。古代的仁人,看到国家有道则尽忠辅佐,国家无道则退身避乱。看来你还不明白这种出处进退的好处。诗云:民之多辟,无自立辟。泄冶的情况正是这样啊。”
「では」と大分長い間考えた後で子路が言う。結局この世で最も大切なことは、一身の安全を計ることに在るのか? 身を捨てて義を成すことの中にはないのであろうか? 一人の人間の出処進退の適不適の方が、天下蒼生の安危ということよりも大切なのであろうか? というのは、今の泄冶がもし眼前の乱倫に顰蹙して身を退いたとすれば、なるほど彼の一身はそれで良いかも知れぬが、陳国の民にとって一体それが何になろう? まだしも、無駄とは知りつつも諫死した方が、国民の気風に与える影響から言っても遥かに意味があるのではないか。
“那么,”思考许久后子路说道,“在这个世上,最要紧的是计较自身的安危,而不是舍身取义吗?一个人出处进退的合适不合适,比天下苍生的安危还更重要吗?如果泄冶对眼前的乱伦只是皱皱眉头、全身而退的话,不错,对他个人的结局也许是好的,但对陈国的百姓又算什么呢?明知无用而舍身谏死,即使从对民风的影响来说,不也是有意义得多吗?”
「それは何も一身の保全ばかりが大切とは言わない。それならば比干を仁人と褒めはしないはずだ。但、生命は道のために捨てるとしても捨て時・捨て処がある。それを察するに智をもってするのは、別に私の利のためではない。急いで死ぬるばかりが能ではないのだ。」
“我并没有说保全自身才是最重要的。如果那样的话,也就不称赞比干是仁人了。但是,即使为道舍弃生命,也要分舍弃的时间和场合。用智慧去判断它,可不是为了私利。并不是只有速求一死才算本事啊。”
そう言われれば一応はそんな気がして来るが、やはり釈然としない所がある。身を殺して仁を成すべきことを言いながら、その一方、どこかしら明哲保身を最上智と考える傾向が、時々師の言説の中に感じられる。それがどうも気になるのだ。他の弟子達がこれを一向に感じないのは、明哲保身主義が彼等に本能として、くっついているからだ。それをすべての根柢とした上での・仁であり義でなければ、彼等には危くて仕方が無いに違いない。
这话听起来像是不错,可终归是无法释然。一边讲应该杀身成仁,可另一边,老师的教诲里又不时会流露出一种将明哲保身视为最上智的倾向,这一点令子路十分在意。别的弟子感觉不到这一点,也许是因为明哲保身主义对他们来说是和本能一样自然的东西。如果不是在此基础之上的仁、义的话,他们一定会害怕的。
子路が納得し難げな顔色で立去った時、その後姿を見送りながら、孔子が愀然として言った。邦に道有る時も直きこと矢のごとし。道無き時もまた矢のごとし。あの男も衛の史魚の類だな。恐らく、尋常な死に方はしないであろうと。
子路带着难以信服的表情离去时,目送着他的背影,孔子愀然说道:“国家有道的时候直如矢。国家无道的时候也直如矢。这个人也是卫国史鱼那样的人啊。恐怕不会平平常常地死去吧。”
楚が呉を伐った時、工尹商陽という者が呉の師を追うたが、
楚国攻打吴国时,有位名叫商阳的工尹追赶吴师。
同乗の王子棄疾に「王事なり。子、弓を手にして可なり。」といわれて始めて弓を執り、「子、これを射よ。」と勧められてようやく一人を射斃した。しかしすぐにまた弓を韔に収めてしまった。再び促されてまた弓を取出し、あと二人を斃したが、一人を射るごとに目を掩うた。さて三人を斃すと、「自分の今の身分ではこの位で充分反命するに足るだろう。」とて、車を返した。
同车的王子弃疾催促他说:“如今为王事。子可执弓。”他才拿起弓箭。又催促他:“子,射之。”他才射死了一人。随后马上将弓收回弓囊。经过再次催促,他才又拿出弓来,射死了两人。每射死一人都以袖掩面。射死三人后,他说道:“按自己如今的身份,这样足以复命了。”于是就掉转了车头。
この話を孔子が伝え聞き、「人を殺すの中、また礼あり。」と感心した。子路に言わせれば、しかし、こんなとんでもない話はない。殊に、「自分としては三人斃した位で充分だ。」などという言葉の中に、彼の大嫌いな・一身の行動を国家の休戚より上に置く考え方が余りにハッキリしているので、腹が立つのである。
此事传到了孔子耳朵里,孔子钦佩地说道:“在杀人时也不忘礼啊。”然而要让子路说,没有比这更荒唐的事了。特别是“作为自己杀三个人也就足够了”这样的话里,露骨地表现出一种将个人的行动置于国家休戚之上的想法,这一向是他最为讨厌的。
彼は怫然として孔子に喰って掛かる。「人臣の節、君の大事に当りては、ただ力の及ぶ所を尽くし、死して而して後に已む。夫子何ぞ彼を善しとする?」
他怫然顶撞孔子道:“人臣之节,遇到国君的大事时,应该竭尽全力,死而后已。夫子为何以他为善呢?”
孔子もさすがにこれには一言も無い。笑いながら答える。「然り。汝の言のごとし。吾、ただその、人を殺すに忍びざるの心あるを取るのみ。」
孔子也被驳得哑口无言,笑着答道:“不错。你说得很对。我只是取其不忍杀人之心罢了。”
十三
衛に出入すること四度、陳に留まること三年、曹・宋・蔡・葉・楚と、子路は孔子に従って歩いた。
进出卫国凡四次,滞留陈国共三年,曹,宋,蔡,叶,楚……子路始终追随在孔子左右。
孔子の道を実行に移してくれる諸侯が出て来ようとは、今更望めなかったが、しかし、もはや不思議に子路はいらだたない。世の溷濁と諸侯の無能と孔子の不遇とに対する憤懣焦躁を幾年か繰返した後、ようやくこの頃になって、漠然とながら、孔子及びそれに従う自分等の運命の意味が判りかけて来たようである。
到了现在,已经不再期盼会有哪个诸侯将孔子的道用于实践了,但奇怪的是,子路反而不再急躁。世道的混浊、诸侯的无能、孔子的不遇,最初几年里他曾经为这些不断感到愤懑和焦躁,可现在,他逐渐明白了孔子以及追随孔子的自己这些人命运的意义。
それは、消極的に命なりと諦める気持とは大分遠い。同じく命なりと云うにしても、「一小国に限定されない・一時代に限られない・天下万代の木鐸」としての使命に目覚めかけて来た・かなり積極的な命なりである。匡の地で暴民に囲まれた時昂然として孔子の言った「天のいまだ斯文を喪さざるや匡人それ予をいかんせんや」が、今は子路にも実に良く解って来た。
但是,那和消极放弃的“此乃命也”截然不同。同样是“此乃命也”,这是一种“不限于一个小国,不限于一个时代,为天下万代作木铎”的使命感,一种积极向上的“此乃命也”。在匡地被暴民围困时,孔子曾经昂然说过:“天之未丧斯文也,匡人其如予何?”这句话的含意,如今子路才真正明白。
いかなる場合にも絶望せず、決して現実を軽蔑せず、与えられた範囲で常に最善を尽くすという師の智慧の大きさも判るし、常に後世の人に見られていることを意識しているような孔子の挙措の意味も今にして始めて頷けるのである。あり余る俗才に妨げられてか、明敏子貢には、孔子のこの超時代的な使命についての自覚が少い。朴直子路の方が、その単純極まる師への愛情の故であろうか、かえって孔子というものの大きな意味をつかみ得たようである。
在任何情况下都不绝望,任何时候决不轻蔑现实,在给定的范围内总是做到最好。——现在他终于懂得了老师智慧的伟大之处,也开始明白并首肯孔子在一言一行中总是意识到后人视线的意义。也许是被不必要的俗才所妨碍,聪敏的子贡似乎并不理解孔子这种超时代的使命。而纯朴的子路由于对老师单纯至极的热爱的缘故,反而抓住了孔子的存在的意义。
放浪の年を重ねている中に、子路ももはや五十歳であった。圭角20がとれたとは称し難いながら、さすがに人間の重みも加わった。後世のいわゆる「万鍾我において何をか加えん」の気骨も、炯々たるその眼光も、痩浪人の徒らなる誇負から離れて、既に堂々たる一家の風格を備えて来た。
在漂泊岁月的流逝中,子路也已经年届五十了。棱角虽然尚未磨平,但人格的厚重的的确在增加。后世所谓“万钟与我有何加焉”的气骨,还有那炯炯的目光,都早已摆脱了穷酸游侠的自吹自擂,具备了堂堂一家的风骨。
十四
孔子が四度目に衛を訪れた時、若い衛侯や正卿孔叔圉等から乞われるままに、子路を推してこの国に仕えさせた。孔子が十余年ぶりで故国に聘えられた時も、子路は別れて衛に留まったのである。
孔子第四次访问卫国时,应年轻的卫侯和正卿孔叔圉的请求,推举子路为这个国家效力。孔子时隔十余年之久被召到故国时,子路告辞并留在了卫国。
十年来、衛は南子夫人の乱行を中心に、絶えず紛争を重ねていた。まず公叔戍という者が南子排斥を企てかえってその讒に遭って魯に亡命する。続いて霊公の子・太子蒯聩も義母南子を刺そうとして失敗し晋に奔る。太子欠位の中に霊公が卒する。やむをえず亡命太子の子の幼い輒を立てて後を嗣がせる。出公がこれである。
十年来,卫国国内围绕南子夫人的乱行,纷争此起彼伏。先是公叔戍企图排挤南子,结果反遭她谗言中伤而逃亡鲁国。接着是太子剻聩试图刺杀南子,失败后亡命晋国。在没有太子的情况下灵公去世,不得已将亡命太子年幼的儿子辄扶上了王位,这就是出公。
出奔した前太子蒯聩は晋の力を借りて衛の西部に潜入し虎視眈々と衛侯の位を窺う。これを拒もうとする現衛侯出公は子。位を奪おうと狙う者は父。子路が仕えることになった衛の国はこのような状態であった。
随后,亡命的前太子剻聩借助晋国力量潜入了卫国西部,虎视眈眈地窥伺着卫侯的位子。警戒防备的一方是儿子,一心夺位的一方是父亲。子路效力的卫国就处于这样一种状态。
子路の仕事は孔家のために宰として蒲の地を治めることである。衛の孔家は、魯ならば季孫氏に当る名家で、当主孔叔圉はつとに名大夫の誉が高い。蒲は、先頃南子の讒に遭って亡命した公叔戍の旧領地で、従って、主人を逐うた現在の政府に対してことごとに反抗的な態度を執っている。元々人気の荒い土地で、かつて子路自身も孔子に従ってこの地で暴民に襲われたことがある。
子路的工作是作为孔氏之宰治理蒲地。卫国的孔氏是像鲁国季孙氏那样的名门,族长孔叔圉是有名的大夫,多年来很有声望。蒲地原先是遭南子进谗而亡命的公叔戍的领地,对驱逐了主人的现政府动辄进行反抗。这里自古以来民风凶悍,子路自己就曾经跟随孔子在这里遭受过暴民的袭击。
任地に立つ前、子路は孔子の所に行き、「邑に壮士多くして治め難し」といわれる蒲の事情を述べて教を乞うた。孔子が言う。「恭にして敬あらばもって勇を懾れしむべく、寛にして正しからばもって強を懐くべく、温にして断ならばもって姦を抑うべし」と。子路再拝して謝し、欣然として任に赴いた。
前往任地之前,子路来到孔子那里,求教该如何治理被称为“邑多壮士,极难治也”的蒲地。孔子说道:“恭而敬,可以摄勇。宽而正,可以怀强。温而断,可以抑奸。”子路感激地拜了两拜,欣然赴任去了。
蒲に着くと子路はまず土地の有力者、反抗分子等を呼び、これと腹蔵なく語り合った。手なずけようとの手段ではない。孔子の常に言う「教えずして刑することの不可」を知るが故に、まず彼等に己の意の在る所を明かしたのである。気取の無い率直さが荒っぽい土地の人気に投じたらしい。壮士連はことごとく子路の明快闊達に推服した。
到达蒲地后,子路首先将当地的豪强和叛民召到一起,开诚布公地谈了一次。不是出于怀柔的手段,而是因为常听孔子说“不可无教而用刑”,所以首先让对方明确知道自己的意图。子路毫不做作的坦率似乎和当地粗豪的民风十分投合。壮士们都对子路的明快阔达感到心悦诚服。
それにこの頃になると、既に子路の名は孔門随一の快男児として天下に響いていた。「片言もって獄を折むべきものは、それ由か」などという孔子の推奨の辞までが、大袈裟な尾鰭をつけて普く知れ渡っていたのである。蒲の壮士連を推服せしめたものは、一つには確かにこうした評判でもあった。
另外,这时子路作为孔门首屈一指的好男儿的名声已经响彻了天下。“片言可以折狱者,其由也与?”孔子对子路的这一称赞,也经过不少的添枝加叶在各地广为流传。使蒲地壮士心悦诚服的理由里无疑也有这些评价的影响。
三年後、孔子がたまたま蒲を通った。まず領内に入った時、「善い哉、由や、恭敬にして信なり」と言った。進んで邑に入った時、「善い哉、由や、忠信にして寛なり」と言った。いよいよ子路の邸に入るに及んで、「善い哉、由や、明察にして断なり」と言った。
三年后,孔子偶然经过蒲地。刚进入领地,就说道:“善哉,由。恭敬有信。”接着走进城邑,又道:“善哉,由。忠信有宽。”等最后来到子路的宅邸前,他又说道:“善哉,由。明察有断。”
轡を執っていた子貢が、いまだ子路を見ずしてこれを褒める理由を聞くと、孔子が答えた。已にその領域に入れば田疇ことごとく治まり草莱甚だ辟け溝洫は深く整っている。治者恭敬にして信なるが故に、民その力を尽くしたからである。その邑に入れば民家の牆屋は完備し樹木は繁茂している。治者忠信にして寛なるが故に、民その営を忽せにしないからである。さていよいよその庭に至れば甚だ清閑で従者僕僮一人として命に違う者が無い。治者の言、明察にして断なるが故に、その政が紊れないからである。いまだ由を見ずしてことごとくその政を知った訳ではないかと。
执辔的子贡向孔子请教还未见到子路就称赞他的理由,孔子答道:“进入他的领地,看到阡陌纵横,广开荒地,深挖沟渠。因为治者恭敬有信,所以人民各尽其力。进入他的城邑,看到民宅整齐,树木繁茂。因为治者忠信有宽,所以百姓安居乐业。等来到他的庭前,看到景象清闲,从者仆童没有一人违背命令。因为治者明察有断,所以政事有条不紊。虽然还没有见到由,我怎能不知道他的政绩呢?”
十五
魯の哀公が西の方大野に狩して麒麟を獲た頃、子路は一時衛から魯に帰っていた。その時小邾の大夫・射という者が国に叛き魯に来奔した。
鲁哀公在西方的大野狩猎、捕获了麒麟的时候,子路回了一趟鲁国。当时小邾的大夫射叛逃自己的国家,亡命到了鲁国。
子路と一面識のあったこの男は、「季路をして我に要せしめば、吾盟うことなけん。」と言った。当時の慣いとして、他国に亡命した者は、その生命の保証をその国に盟ってもらってから始めて安んじて居つくことが出来るのだが、この小邾の大夫は「子路さえその保証に立ってくれれば魯国の誓など要らぬ」というのである。諾を宿するなし、という子路の信と直とは、それほど世に知られていたのだ。
按当时的惯例,亡命到别国的人需要得到所在国家的盟誓,才能安心在那里居住。但这位小邾的大夫却说:“只要子路肯替我担保,不需要鲁国的盟誓。”所谓“子路无宿诺”,这时他的信与直已经誉满天下了。
ところが、子路はこの頼をにべも無く断った。ある人が言う。千乗の国の盟をも信ぜずして、ただ子一人の言を信じようという。男児の本懐これに過ぎたるはあるまいに、なにゆえこれを恥とするのかと。
但是,子路冷淡地回绝了这个请求。有人问他:“这个人不相信千乘之国的盟誓,唯独相信你一人。男儿夙愿,大概也不过如此了。为何你不以为荣,反以为耻呢?”
子路が答えた。魯国が小邾と事ある場合、その城下に死ねとあらば、事のいかんを問わず欣んで応じよう。しかし射という男は国を売った不臣だ。もしその保証に立つとなれば、自ら売国奴を是認することになる。おれに出来ることか、出来ないことか、考えるまでもないではないか!
子路答道:“如果鲁国与小邾发生战事,即使叫我死于城下,我也会欣然答应。可是射这个卖国的奸臣,如果我替他担保,就等于我自己认可了卖国奴。能做还是不能做,难道还需要考虑吗?”
子路を良く知るほどの者は、この話を伝え聞いた時、思わず微笑した。余りにも彼のしそうな事、言いそうな事だったからである。
认识子路的人听说了这些话,都不由得微笑了。因为这实在太像他所说的话、所做的事了。
同じ年、斉の陳恒がその君を弑いした。孔子は斎戒すること三日の後、哀公の前に出て、義のために斉を伐たんことを請うた。請うこと三度。斉の強さを恐れた哀公は聴こうとしない。季孫に告げて事を計れと言う。季康子がこれに賛成する訳が無いのだ。
同一年,齐国陈桓弑君。孔子斋戒三日后,来到哀公面前,请求伐齐以正大义。奏请凡三次。畏惧强齐的哀公不愿理会,只说:“请与季孙商量。”季康子当然也不可能赞成。
孔子は君の前を退いて、さて人に告げて言った。「吾、大夫の後に従うをもってなり。故にあえて言わずんばあらず。」無駄とは知りつつも一応は言わねばならぬ己の地位だというのである。(当時孔子は国老の待遇を受けていた。)
孔子从君前退下后,告诉别人道:“我忝居大夫之列,故此不敢不言。”意思是说由于自己的地位,明知没用也要姑且说上一说。(当时孔子享受着国老的待遇。)
子路はちょっと顔を曇らせた。夫子のした事は、ただ形を完うするために過ぎなかったのか。形さえ履めば、それが実行に移されないでも平気で済ませる程度の義憤なのか?
子路听说后沉下了脸。“夫子所做的,难道只是为了履行形式吗?他的义愤难道是只要履行了形式,即使不实行也可以心平气和那种程度的东西吗?”
教を受けること四十年に近くして、なお、この溝はどうしようもないのである。
受教将近四十年,这中间的鸿沟,还是无法可想。
十六
子路が魯に来ている間に、衛では政界の大黒柱孔叔圉が死んだ。その未亡人で、亡命太子蒯聩の姉に当る伯姫という女策士が政治の表面に出て来る。
子路回鲁国的那段日子,卫国政界的支柱孔叔圉去世了。他的未亡人、亡命太子剻聩的姐姐伯姬趁机开始在政界展露头角。
一子悝が父圉の後を嗣いだことにはなっているが、名目だけに過ぎぬ。伯姫から云えば、現衛侯輒は甥、位を窺う前太子は弟で、親しさに変りはないはずだが、愛憎と利慾との複雑な経緯があって、妙に弟のためばかりを計ろうとする。夫の死後頻りに寵愛している小姓21上りの渾良夫なる美青年を使として、弟蒯聩との間を往復させ、秘かに現衛侯逐出しを企んでいる。
孔叔圉的儿子悝虽然继承了父亲的地位,但不过是摆设而已。对女政客伯姬来说,当今卫侯是外甥,窥伺王位的前太子是弟弟,从亲缘上来讲应该不分彼此;但是中间夹杂着种种爱憎、利欲的纠葛,结果她只顾替弟弟谋划。丈夫死后,一个名叫浑良夫的出身贫贱的美男子得到她的宠爱。她频繁令此人出使,与弟弟剻聩之间互通消息,秘密策划放逐如今的卫侯。
子路が再び衛に戻ってみると、衛侯父子の争は更に激化し、政変の機運の濃く漂っているのがどことなく感じられた。
子路再次回到卫国时,卫侯父子间的争夺更加激化,到处弥漫着一股即将发生政变的味道。
周の昭王の四十年閏十二月某日。夕方近くになって子路の家にあわただしく跳び込んで来た使があった。
周昭王四十年闰十二月某日。将近黄昏时,子路家里冲进来一位慌慌张张的使者。
孔家の老・欒寧の所からである。「本日、前太子蒯聩都に潜入。ただ今孔氏の宅に入り、伯姫・渾良夫と共に当主孔悝を脅して己を衛侯に戴かしめた。大勢は既に動かし難い。自分(欒寧)は今から現衛侯を奉じて魯に奔るところだ。後はよろしく頼む。」という口上である。
使者是孔家的家老栾宁派来的,带来了大意如下的口信。“今天,前太子剻聩潜入了都城。如今已经进入孔氏宅邸,正与伯姬、浑良夫一起胁迫孔悝拥戴自己为卫侯。大势已难挽回,自己(栾宁)现在就侍奉当今卫侯出奔鲁国。后事请多费心。”
いよいよ来たな、と子路は思った。とにかく、自分の直接の主人に当る孔悝が捕えられ脅されたと聞いては、黙っている訳に行かない。おっ取り刀で、彼は公宮へ駈け付ける。
“该来的还是来了。”子路想道。不管怎样,自己直属的主人孔悝被捕并遭到胁迫,听到这些总不能置之不理。他一把抓起剑,冲向了王宫。
外門を入ろうとすると、ちょうど中から出て来るちんちくりんな男にぶっつかった。子羔だ。孔門の後輩で、子路の推薦によってこの国の大夫となった・正直な・気の小さい男である。子羔が言う。内門はもう閉ってしまいましたよ。子路。いや、とにかく行くだけは行ってみよう。子羔。しかし、もう無駄ですよ。かえって難に遭うこともないとは限らぬし。子路が声を荒らげて言う。孔家の禄を喰む身ではないか。何のために難を避ける?
刚来到外门,迎面碰上一个从里面跑出来的小个子,是子羔。这是孔门的后辈,经子路保荐当上了这个国家的大夫,是个正直而略嫌胸襟狭窄的男人。子羔说道:“内门已经关上了。”子路道:“不管怎样,我要去看一看。”子羔道:“但是,已经没用了呀。没准还会遭难。”子路厉声说道:“不是食孔家之禄的吗?干什么避难?”
子羔を振切って内門の所まで来ると、果して中から閉っている。ドンドンと烈しく叩く。はいってはいけない! と、中から叫ぶ。その声を聞き咎めて子路が怒鳴った。公孫敢だな、その声は。難を逃れんがために節を変ずるような、俺は、そんな人間じゃない。その禄を利した以上、その患を救わねばならぬのだ。開けろ! 開けろ!
甩开子羔,来到内门一看,果然已经从里面关上了。子路咚咚地猛烈叩门。从里面传出叫声:“不可以进来。”子路冲着那个声音怒吼道:“说话的那个,是公孙敢吧。为了避难而变节,我可不是那样的人。食君之禄,就得救君之难。开门!开门!”
ちょうど中から使の者が出て来たので、それと入違いに子路は跳び込んだ。
刚好有使者从里面出来,子路趁机冲了进去。
見ると、広庭一面の群集だ。孔悝の名において新衛侯擁立の宣言があるからとて急に呼び集められた群臣である。皆それぞれに驚愕と困惑との表情を浮かべ、向背に迷うもののごとく見える。庭に面した露台の上には、若い孔悝が母の伯姫と叔父の蒯聩とに抑えられ、一同に向って政変の宣言とその説明とをするよう、強いられている貌だ。
放眼看去,院子里挤满了人。全是听说要以孔悝的名义,发布拥戴新卫侯即位的宣言,被紧急召集来的群臣。众人脸上露着惊愕和困惑的表情,正不知如何选择向背。面对院子的露台上,年轻的孔悝被母亲伯姬和叔父剻聩扣压着,看起来正被胁迫着要向众人发布政变的宣言和说明。
子路は群衆の背後から露台に向って大声に叫んだ。孔悝を捕えて何になるか! 孔悝を離せ。孔悝一人を殺したとて正義派は亡びはせぬぞ!
子路从众人背后朝露台大声喊道:“为什么抓住孔悝?放开他。杀了孔悝一人,正义派也不会死绝的。”
子路としてはまず己の主人を救い出したかったのだ。さて、広庭のざわめきが一瞬静まって一同が己の方を振向いたと知ると、今度は群集に向って煽動を始めた。太子は音に聞えた臆病者だぞ。下から火を放って台を焼けば、恐れて孔叔(悝)を舎すに決っている。火を放つけようではないか。火を!
作为子路,是想先救出自己的主人。看到院子里的嘈杂一下子静了下来,众人纷纷回头看自己,他开始面向众人,发起煽动:“太子是有名的懦夫。只要从底下放火烧台子,他肯定会害怕得释放了孔叔(悝)的。放火呀!放火!”
既に薄暮のこととて庭の隅々に篝火が燃されている。それを指さしながら子路が、「火を! 火を!」と叫ぶ。「先代孔叔文子(圉)の恩義に感ずる者共は火を取って台を焼け。そうして孔叔を救え!」
已经是薄暮时分,院子四角都点着篝火。子路指着那些火堆,大叫着:“火!火!记得先代孔叔文子(圉)恩义的人,大家赶快放火烧台,救出孔叔。”
台の上の簒奪者は大いに懼れ、石乞・盂黶の二剣士に命じて、子路を討たしめた。
台上的篡位者大为惊恐,命令石乞、盂黡两名剑客去杀掉子路。
子路は二人を相手に激しく斬り結ぶ。往年の勇者子路も、しかし、年には勝てぬ。次第に疲労が加わり、呼吸が乱れる。
子路与两人激烈地砍杀在一起。当年的壮士子路,终于敌不过岁月,渐渐感到体力不支,呼吸也有些乱了。
子路の旗色の悪いのを見た群集は、この時ようやく旗幟を明らかにした。罵声が子路に向って飛び、無数の石や棒が子路の身体に当った。敵の戟の尖端が頬を掠めた。纓(冠の紐)が断れて、冠が落ちかかる。左手でそれを支えようとした途端に、もう一人の敵の剣が肩先に喰い込む。血が迸り、子路は倒れ、冠が落ちる。
看到子路形势不妙的众人,这时纷纷亮明了旗帜。骂声冲着子路飞去,无数石头棍棒打在了他身上。突然,敌人长戟的锋芒擦过了子路的脸颊。系冠的缨带断掉了,冠朝下掉去。正想用左手扶住它时,另一个敌人的长剑刺入了肩头。血花迸溅,子路倒在地上,冠掉了下来。
倒れながら、子路は手を伸ばして冠を拾い、正しく頭に着けて素速く纓を結んだ。敵の刃の下で、真赤に血を浴びた子路が、最期の力を絞って絶叫する。「見よ! 君子は、冠を、正しゅうして、死ぬものだぞ!」
子路一边躺在地上,一边伸手拾起冠,把它端正地戴在头上,并迅速系上了缨带。在敌人的白刃下,遍身是血的子路用尽最后的力气叫道:“看吧,君子是正冠而死的。”
全身膾のごとくに切り刻まれて、子路は死んだ。
全身被切得如同肉脍,子路死去了。
魯に在って遥かに衛の政変を聞いた孔子は即座に、「柴(子羔)や、それ帰らん。由や死なん。」と言った。果してその言のごとくなったことを知った時、老聖人は佇立瞑目することしばし、やがて潸然として涙下った。
在遥远的鲁国听说卫国政变的孔子立刻说道:“柴(子羔)啊,会回来吧。由啊,会死去吗?”当知道自己的话果真应验时,老圣人伫立着瞑目良久,须臾潸然泪下。
子路の屍が醢22にされたと聞くや、家中の塩漬類をことごとく捨てさせ、爾後、醢は一切食膳に上さなかったということである。
子路的尸体被做成咸肉的消息传来后,他立刻命令把家里所有的盐渍类食物扔掉,此后,再不许把盐端上食案。
Footnotes
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喧しい:[形][文]声や物音などが騒がしい ↩
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檠:[名]弓の弾力を強くするために弓幹を矯めてそらせること ↩
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陽虎:春秋后期鲁国政治家,通过控制季孙氏把持了鲁国的朝政 ↩
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手合:[名]連中。やつら。やや軽蔑していう ↩
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眥、眦:[名]めじり。目つき ↩
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下風:[名]他より低い地位 ↩
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開き:[名]二つ以上の物事の間の差 ↩
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苛斂誅求:[名]情け容赦もなく、税金などを取り立てること ↩
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法螺:[名]うそを言うこと。大言をはくこと ↩
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公山不狃:姓公山,名不狃,春秋时期鲁国人,季孙氏家臣,因受季桓子器重,于鲁定公五年被任命为费邑(今山东费县)宰,掌管季氏重要封邑 ↩
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穿る:[動ラ五(四)]隠されているわずかなものを、ことさらに追及する ↩
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媾和:[名]交戦国が合意のもとに戦争をやめ、平和を回復すること ↩
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虐げる:[動ガ下一]むごい扱いをして苦しめる ↩
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青二才:[名]年が若く、経験に乏しい人を卑しめていうことば ↩
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将、当:[副]あるいは。それとも ↩
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安ぞ、焉ぞ:[副]漢文訓読の用語で、下に推量表現を伴って反語を表わす ↩
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肩透し:[名]意気込んで立ち向かってくる相手を、うまくそらすこと ↩
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夙に:[副]ずっと以前から ↩
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蓋し:[副]物事を確信をもって推定する意を表す ↩
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圭角:[名]性格や言動にかどがあって、円満でないこと ↩
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小姓:[名]貴人の家や寺などで、主人の身近な雑用を務める役 ↩
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醢:[名]魚や鳥などの肉の塩づけ ↩