中島敦: 李陵
first published:『文學界』1943年7月号
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desc: 以汉武帝天汉二年李陵伐匈奴的史实为蓝本,围绕李陵、司马迁、苏武三人的命运交织,讲述了一场由战场绝境、廷议构陷、君主误判引发的千古悲剧
一
漢の武帝の天漢1二年秋九月、騎都尉・李陵は歩卒五千を率い、辺塞遮虜鄣を発して北へ向かった。
汉武帝天汉二年秋九月,骑都尉李陵率领步卒五千,从边塞遮虏鄣发兵北上。
阿爾泰山脈の東南端が戈壁沙漠に没せんとする辺の磽确2たる丘陵地帯を縫って北行すること三十日。朔風は戎衣を吹いて寒く、いかにも万里孤軍来たるの感が深い。漠北・浚稽山3の麓に至って軍はようやく止営した。すでに敵匈奴の勢力圏に深く進み入っているのである。
沿阿尔泰山脉东南麓即将没入戈壁沙漠处峥嵘的丘陵地带行军凡三十日。朔风吹打戎衣,寒冷之余,生出无限孤军万里来征的感慨。行至漠北浚稽山麓时,队伍停军扎营,这里已深入敌方匈奴的势力范围之内了。
秋とはいっても北地のこととて、苜蓿も枯れ、楡や檉柳の葉ももはや落ちつくしている。木の葉どころか、木そのものさえ(宿営地の近傍を除いては)、容易に見つからないほどの、ただ砂と岩と磧と、水のない河床との荒涼たる風景であった。極目人煙を見ず、まれに訪れるものとては曠野に水を求める羚羊ぐらいのものである。突兀と秋空を劃る遠山の上を高く雁の列が南へ急ぐのを見ても、しかし、将卒一同誰一人として甘い懐郷の情などに唆られるものはない。それほどに、彼らの位置は危険極まるものだったのである。
时令尚在秋天,北地已是一片肃杀景象。苜蓿枯零,榆树和杞柳的叶子凋落殆尽。不光树叶,除宿营地附近外根本连树木都难以见到。四面唯有黄沙、岩石、瓦砾、干涸的河床。极目远望,不见人烟,偶尔的访客就是旷野中求水的羚羊。远处突兀插入蓝天的山巅上空高处,一行急急南归的秋雁飞过。然而将卒中没有一个人被这情景诱发甜美的思乡之情——此刻他们正处在危险至极的位置上。
騎兵を主力とする匈奴に向かって、一隊の騎馬兵をも連れずに歩兵ばかり(馬に跨がる者は、陵とその幕僚数人にすぎなかった、)で奥地深く侵入することからして、無謀の極みというほかはない。その歩兵も僅か五千、絶えて後援はなく、しかもこの浚稽山は、最も近い漢塞の居延からでも優に一千五百里(支那里程)は離れている。統率者李陵への絶対的な信頼と心服とがなかったならとうてい続けられるような行軍ではなかった。
面对以骑兵为主力的匈奴,连一支骑旅也不带(跨在马背上的不过李陵及幕僚数人而已),全靠步兵深入敌人腹地,这不能不说是无谋至极。更何况步兵人数不过五千,绝无后援,而此处的浚稽山,即令最近的汉塞居延关也遥在一千五百里之外。如果没有对统军者李陵绝对的信赖与追从,这样的行军到底难于进行下去。
毎年秋風が立ちはじめると決って漢の北辺には、胡馬に鞭うった剽悍な侵略者の大部隊が現われる。辺吏が殺され、人民が掠められ、家畜が奪略される。五原・朔方・雲中・上谷・雁門などが、その例年の被害地である。大将軍衛青・嫖騎将軍霍去病の武略によって一時漠南に王庭なしといわれた元狩以後元鼎へかけての数年を除いては、ここ三十年来欠かすことなくこうした北辺の災いがつづいていた。霍去病が死んでから十八年、衛青が歿してから七年。浞野侯趙破奴は全軍を率いて虜に降り、光禄勲徐自為の朔北に築いた城障もたちまち破壊される。全軍の信頼を繋ぐに足る将帥としては、わずかに先年大宛を遠征して武名を挙げた弐師将軍李広利があるにすぎない。
每年秋风一起,汉朝北疆就会出现大队鞭打着胡马的剽悍的入侵者。边吏被杀,人民被掠,牲畜被夺。五原、朔方、云中、上谷、雁门等处历年是受害之地。除了元狩至元鼎的数年间,大将军卫青和骠骑将军霍去病的武略一时间创造出了所谓 “漠南无王庭” 的局面之外,近三十年来北地的灾害一直持续不断。如今霍去病逝去已有十八年,卫青逝去七年。浞野侯赵破奴率领全军降虏,光禄勋徐自为在朔北筑起的城障须臾被破之后,足以凝聚全军信赖的将帅,只剩下前几年远征大宛声威大振的贰师将军李广利了。
その年――天漢二年夏五月、――匈奴の侵略に先立って、弐師将軍が三万騎に将として酒泉を出た。しきりに西辺を窺う匈奴の右賢王を天山に撃とうというのである。武帝は李陵に命じてこの軍旅の輜重4のことに当たらせようとした。未央宮の武台殿に召見された李陵は、しかし、極力その役を免ぜられんことを請うた。陵は、飛将軍と呼ばれた名将李広の孫。つとに祖父の風ありといわれた騎射の名手で、数年前から騎都尉として西辺の酒泉・張掖に在って射を教え兵を練っていたのである。年齢もようやく四十に近い血気盛りとあっては、輜重の役はあまりに情けなかったに違いない。
这一年——天汉二年夏五月——在匈奴发动侵略之前,贰师将军率领三万骑兵西出酒泉,意在截击频繁窥边的匈奴右贤王于天山。汉武帝想让李陵负责该军旅的辎重事宜。谁料被召到未央宫武台殿上的李陵极力陈请免去此项差役。李陵本是名将飞将军李广之孙,精于骑射,人谓夙有乃祖之风。于数年前作为骑都尉驻守西疆的酒泉、张掖,教射练兵。他这时年近四十,正值血气方刚,辎重的差役无疑是过于无情了。
臣が辺境に養うところの兵は皆荊楚の一騎当千の勇士なれば、願わくは彼らの一隊を率いて討って出で、側面から匈奴の軍を牽制したいという陵の嘆願には、武帝も頷くところがあった。しかし、相つづく諸方への派兵のために、あいにく、陵の軍に割くべき騎馬の余力がないのである。
“臣在边境所养之兵,皆是荆楚之地一骑当千的勇士。唯愿率彼等一队人马讨敌出征,从侧面牵制匈奴兵力。” 李陵的恳请中有着令武帝亦为之颔首的地方。然而,由于接连向各方派兵,此时已没有多余的马匹可以分给李陵的部队。
李陵はそれでも構わぬといった。確かに無理とは思われたが、輜重の役などに当てられるよりは、むしろ己のために身命を惜しまぬ部下五千とともに危うきを冒すほうを選びたかったのである。臣願わくは少をもって衆を撃たんといった陵の言葉を、派手好きな武帝は大いに欣んで、その願いを容れた。
对此李陵回答道:“无妨。” 事情的确并非可行,但和接受辎重的差役相比,他宁可选择同为了自己不惜性命的五千部下共赴危难。一句“臣愿以少击众”使好大喜功的武帝大悦,准可了奏请。
李陵は西、張掖に戻って部下の兵を勒する5とすぐに北へ向けて進発した。当時居延に屯6していた彊弩都尉路博徳が詔を受けて、陵の軍を中道まで迎えに出る。そこまではよかったのだが、それから先がすこぶる拙いことになってきた。
李陵向西回到张掖,整军后随即发兵北上。当时驻守居延的强弩都尉路博德收到诏书,赴中途迎接。至此一切都很顺利,然而此后却多蹇起来。
元来この路博徳という男は古くから霍去病の部下として軍に従い、邳離侯にまで封ぜられ、ことに十二年前には伏波将軍として十万の兵を率いて南越を滅ぼした老将である。その後、法に坐して7侯を失い現在の地位に堕されて西辺を守っている。年齢からいっても、李陵とは父子ほどに違う。かつては封侯をも得たその老将がいまさら若い李陵ごときの後塵を拝するのがなんとしても不愉快だったのである。
这位路博德原是一名老将,早年随霍去病从军,最高曾被封为邳离侯,十二年前更作为伏波将军率领十万大军灭掉了南越。后来他坐法失掉侯位,降至现在的地位镇守西疆。年龄相当于李陵的父辈,以前又曾封侯的这员老将,在李陵这样的年轻晚辈面前俯首下风,感到无论如何不是滋味。
彼は陵の軍を迎えると同時に、都へ使いをやって奏上させた。今まさに秋とて匈奴の馬は肥え、寡兵をもってしては、騎馬戦を得意とする彼らの鋭鋒には些か当たりがたい。それゆえ、李陵とともにここに越年し、春を待ってから、酒泉・張掖の騎各五千をもって出撃したほうが得策と信ずるという上奏文である。もちろん、李陵はこのことをしらない。
他在迎接李陵军队的同时,派使者向京中送去了奏章。说是如今匈奴秋高马肥,以孤寡之师恐难抵挡擅长骑战的敌人的锐旅;不如让李陵一行在此过冬,等来春从酒泉、张掖各调五千骑兵协同出击才是上策。当然,李陵对这件事毫不知情。
武帝はこれを見ると酷く怒った。李陵が博徳と相談の上での上書と考えたのである。わが前ではあのとおり広言しておきながら、いまさら辺地に行って急に怯気づくとは何事ぞという。たちまち使いが都から博徳と陵の所に飛ぶ。李陵は少をもって衆を撃たんとわが前で広言したゆえ、汝はこれと協力する必要はない。今匈奴が西河に侵入したとあれば、汝はさっそく陵を残して西河に馳せつけ敵の道を遮れ、というのが博徳への詔である。李陵への詔には、ただちに漠北に至り東は浚稽山から南は竜勒水8の辺までを偵察観望し、もし異状なくんば、浞野侯の故道に従って受降城9に至って士を休めよとある。博徳と相談してのあの上書はいったいなんたることぞ、という烈しい詰問のあったことは言うまでもない。
武帝见奏章后震怒,以为是李陵与路博德商议之下的上书。“当初在我面前夸下那般海口,可一入边地即生怯意,此乃何事乎!” 立刻有使者飞马赶赴路博德与李陵的所在。颁给博德的诏书中写道:“李陵在御前夸言将以少击众,故汝无与之协力之必要。今匈奴入侵西河,汝当留下李陵速往西河,以断敌人进路。” 给李陵的诏书则道:“速至漠北,侦察东起浚稽山南至龙勒水一带。如无异状,则循浞野侯之故道至受降城修整。” 诏书中还严词责问了伙同路博德上书一事,自不用说。
寡兵をもって敵地に徘徊することの危険を別としても、なお、指定されたこの数千里の行程は、騎馬を持たぬ軍隊にとってははなはだむずかしいものである。徒歩のみによる行軍の速度と、人力による車の牽引力と、冬へかけての胡地の気候とを考えれば、これは誰にも明らかであった。
即使不算以寡兵徘徊敌地的危险,光是指定的这几千里行程,对没有骑兵的军队就是天大难事。仅靠徒步的行军速度、依仗人力的车辆牵引、渐渐入冬的胡地气候——只要考虑一下各项因素,事情对谁都是清楚不过的。
武帝はけっして庸王ではなかったが、同じく庸王ではなかった隋の煬帝や始皇帝などと共通した長所と短所とを有っていた。愛寵比なき李夫人の兄たる弐師将軍にしてからが兵力不足のためいったん、大宛から引揚げようとして帝の逆鱗にふれ、玉門関をとじられてしまった。その大宛征討も、たかだか善馬がほしいからとて思い立たれたものであった。帝が一度言出したら、どんな我儘でも絶対に通さねばならぬ。まして、李陵の場合は、もともと自ら乞うた役割でさえある。(ただ季節と距離とに相当に無理な注文があるだけで)躊躇すべき理由はどこにもない。彼は、かくて、「騎兵を伴わぬ北征」に出たのであった。
汉武帝决不是庸君,但却有着与同样并非庸君的隋炀帝、秦始皇相通的长处与短处。即使是三千宠爱在一身的李夫人的兄长贰师将军,在因兵力不足想从大宛暂时回师时,也触到武帝逆鳞而被关在了玉门关外。而远征大宛的起因,不过是皇上忽然想要得到良马而已。武帝的话一旦出口,无论多么荒唐都必须执行,何况李陵这次又是自己主动请命的呢。没有任何可以踌躇的理由,即使这命令在季节和距离上是多么不合实际。李陵就是这样,踏上了 “无骑兵之北征”。
浚稽山の山間には十日余留まった。その間、日ごとに斥候を遠く派して敵状を探ったのはもちろん、附近の山川地形を剰すところなく図に写しとって都へ報告しなければならなかった。報告書は麾下の陳歩楽という者が身に帯びて、単身都へ馳せるのである。選ばれた使者は、李陵に一揖してから、十頭に足らぬ少数の馬の中の一匹に打跨ると、一鞭あてて丘を駈下りた。灰色に乾いた漠々たる風景の中に、その姿がしだいに小さくなっていくのを、一軍の将士は何か心細い気持で見送った。
在浚稽山中停留十日有余。其间每天派出斥候到远方刺探敌情自不必说,附近的山川地形也必须全部制成图形向京中报告。图形交由麾下的陈步乐贴身携带,单骑送往京城。被选派的这员使者向李陵一揖之后,跨上不足十匹的坐骑中的一匹,挥起一鞭驰下了山岗。全军将士以凄凉的心情目送着那身影,在干燥得呈灰色的苍茫天地中越去越小。
十日の間、浚稽山の東西三十里の中には一人の胡兵をも見なかった。
十天中,在浚稽山东西三十里内没有见到一个胡兵。
彼らに先だって夏のうちに天山へと出撃した弐師将軍はいったん右賢王を破りながら、その帰途別の匈奴の大軍に囲まれて惨敗した。漢兵は十に六、七を討たれ、将軍の一身さえ危うかったという。その噂は彼らの耳にも届いている。李広利を破ったその敵の主力が今どのあたりにいるのか?今、因杅将軍公孫敖が西河・朔方の辺で禦いでいる(陵と手を分かった路博徳はその応援に馳せつけて行ったのだが)という敵軍は、どうも、距離と時間とを計ってみるに、問題の敵の主力ではなさそうに思われる。天山から、そんなに早く、東方四千里の河南(オルドス)の地まで行けるはずがないからである。どうしても匈奴の主力は現在、陵の軍の止営地から北方郅居水までの間あたりに屯していなければならない勘定になる。
夏天时先于他们向天山出击的贰师将军一度击破了右贤王,但在归途中被别的匈奴大军包围,遭到惨败。汉兵十有六七被歼,连将军本人也险些遭遇不测。这些消息传到了他们耳边。破掉李广利的敌军主力如今何在呢?因杅将军公孙敖在西河、朔方方面(与李陵分手后的路博德就是赶去支援那里的)正在抵御的敌军,以距离和时间计算,应该不是那支传说中的敌人主力。从天山到东边四千里的河南(鄂尔多斯)决不可能那么快到达。无论怎么推算,匈奴主力现在都应该正屯扎在陵军宿营地至北边郅居水之间。
李陵自身毎日前山の頂に立って四方を眺めるのだが、東方から南へかけてはただ漠々たる一面の平沙、西から北へかけては樹木に乏しい丘陵性の山々が連なっているばかり、秋雲の間にときとして鷹か隼かと思われる鳥の影を見ることはあっても、地上には一騎の胡兵をも見ないのである。
李陵每天亲自站在前山顶上向四方眺望。从东到南只见一片漠漠平沙,从西向北只有草木贫瘠的丘陵相连。秋云间偶尔能看到象是鹰或隼的飞鸟的影子,然而地面上连一骑胡兵也看不到。
山峡の疎林の外れに兵車を並べて囲い、その中に帷幕を連ねた陣営である。夜になると、気温が急に下がった。士卒は乏しい木々を折取って焚いては暖をとった。十日もいるうちに月はなくなった。空気の乾いているせいか、ひどく星が美しい。黒々とした山影とすれすれに、夜ごと、狼星が、青白い光芒を斜めに曳いて輝いていた。十数日事なく過ごしたのち、明日はいよいよここを立退いて、指定された進路を東南へ向かって取ろうと決したその晩である。
队伍在山谷里疏林的边沿排列成圆阵,帐营在中间帷幕相连。一到夜间,气温急剧下降,士兵们折断本就不多的树枝点火取暖。十天的滞留里月亮由圆变亏,也许是空气干燥的缘故,星星极为美丽。每天夜里,擦着黑黝黝的山影,天狼星斜斜地撒下淡青色的光芒摇曳闪烁。十几天平安无事地过去了,明天就要离开此地,沿着指定的路线向东南方向行进。
一人の歩哨が見るともなくこの爛々たる狼星を見上げていると、突然、その星のすぐ下の所にすこぶる大きい赤黄色い星が現われた。オヤと思っているうちに、その見なれぬ巨きな星が赤く太い尾を引いて動いた。と続いて、二つ三つ四つ五つ、同じような光がその周囲に現われて、動いた。思わず歩哨が声を立てようとしたとき、それらの遠くの灯はフッと一時に消えた。まるで今見たことが夢だったかのように。
就在做出这个决定的当晚,一个步哨正无意识地仰望着那颗灿烂的天狼星时,忽然看到在它的正下方出现了一颗硕大的赤黄色星星。正在诧异,那颗从没见过的巨星拖着粗大的红色尾巴动了起来。紧接着,两颗、三颗、四颗、五颗,同样的光亮浮现在周围并一同摆动起来。步哨正要叫出声来,远远的那些光亮噗地一下同时灭掉了。简直就象做了场梦一样。
歩哨の報告に接した李陵は、全軍に命じて、明朝天明とともにただちに戦闘に入るべき準備を整えさせた。外に出て一応各部署を点検し終わると、ふたたび幕営に入り、雷のごとき鼾声を立てて熟睡した。
接到步哨的报告,李陵传令全军,命令做好明晨天亮立即进入战斗的准备。在外面将各处部署一一检查完毕,再回到帐营时,他打着如雷鼾声进入了熟睡。
翌朝李陵が目を醒まして外へ出て見ると、全軍はすでに昨夜の命令どおりの陣形をとり、静かに敵を待ち構えていた。全部が、兵車を並べた外側に出、戟と盾とを持った者が前列に、弓弩を手にした者が後列にと配置されているのである。この谷を挾んだ二つの山はまだ暁暗の中に森閑とはしているが、そこここの巌蔭に何かのひそんでいるらしい気配がなんとなく感じられる。
翌晨李陵走出帐营,看到全军已经按昨晚的命令摆好阵形,正在静候敌人。所有人站在排列整齐的军车的外侧,持戟和盾者在前排,持弓弩者在后排。挟着这片山谷的两座山峰在拂晓的夜色中森然伫立,这里那里的岩石阴影下面仿佛隐藏着些什么。
朝日の影が谷合にさしこんでくると同時に、(匈奴は、単于がまず朝日を拝したのちでなければ事を発しないのであろう。)今まで何一つ見えなかった両山の頂から斜面にかけて、無数の人影が一時に湧いた。天地を撼がす喊声とともに胡兵は山下に殺到した。胡兵の先登が二十歩の距離に迫ったとき、それまで鳴りをしずめていた漢の陣営からはじめて鼓声が響く。たちまち千弩ともに発し、弦に応じて数百の胡兵はいっせいに倒れた。間髪を入れず、浮足立った10残りの胡兵に向かって、漢軍前列の持戟者らが襲いかかる。匈奴の軍は完全に潰えて、山上へ逃げ上った。漢軍これを追撃して虜首を挙げること数千。
当朝阳的光线射进山谷时(匈奴要等单于拜过日出后才举事),迄今一无所见的两座山上,从山顶到山坡霎时间涌现出无数人影。伴着震天撼地的喊声,胡兵冲到了山下。等胡兵先锋逼近到只剩二十步距离时,一直没有动静的汉军阵营响起了第一阵鼓声。刹那间千弩齐发,数百名胡兵应弦而倒。间不容发,汉军前排持戟的士兵朝立足未稳的残余胡兵冲了上去。匈奴的军队完全溃败,逃回了山上。汉军乘胜追击再获虏首数千余。
鮮やかな勝ちっぷりではあったが、執念深い敵がこのままで退くことはけっしてない。今日の敵軍だけでも優に三万はあったろう。それに、山上に靡いていた旗印から見れば、紛れもなく単于の親衛軍である。単于がいるものとすれば、八万や十万の後詰めの軍は当然繰出されるものと覚悟せねばならぬ。李陵は即刻この地を撤退して南へ移ることにした。それもここから東南二千里の受降城へという前日までの予定を変えて、半月前に辿って来たその同じ道を南へ取って一日も早くもとの居延塞(それとて千数百里離れているが)に入ろうとしたのである。
这一仗胜得可谓精彩,然而顽固的敌人决不会就这样退走。光是今天的敌军就不止三万人,而从山上挥舞的旗号来看,无疑正是单于的亲卫军。如果单于就在这里,当然还会有八万、十万的后继部队跟补上来。李陵立刻决定撤离此地向南移动,并且改变至昨天为止的向东南方二千里处的受降城行军的计划,沿着半个月前来时的旧路向南,争取早一天进入原先的居延寨——即便那里也相距着一千数百里的路程。
南行三日めの午、漢軍の後方はるか北の地平線に、雲のごとく黄塵の揚がるのが見られた。匈奴騎兵の追撃である。翌日はすでに八万の胡兵が騎馬の快速を利して、漢軍の前後左右を隙もなく取囲んでしまっていた。ただし、前日の失敗に懲りたとみえ、至近の距離にまでは近づいて来ない。南へ行進して行く漢軍を遠巻きにしながら、馬上から遠矢を射かけるのである。李陵が全軍を停めて、戦闘の体形をとらせれば、敵は馬を駆って遠く退き、搏戦を避ける。ふたたび行軍をはじめれば、また近づいて来て矢を射かける。行進の速度が著しく減ずるのはもとより、死傷者も一日ずつ確実に殖えていくのである。飢え疲れた旅人の後をつける曠野の狼のように、匈奴の兵はこの戦法を続けつつ執念深く追って来る。少しずつ傷つけていった揚句、いつかは最後の止めを刺そうとその機会を窺っているのである。
南行第三天正午,在汉军身后北方遥远的地平线上,望见了如同云团一样卷起的黄尘。是匈奴骑兵在追赶。一天后已经有八万胡兵凭借马快之利,将汉军前后左右密密麻麻地包围了起来。看来是对前几天的战败心有余悸,并不靠近到跟前来。匈奴军只是从远处包围着南行的汉军,不断从马鞍上射箭。李陵刚命令全军停下,摆开作战队形,敌人就拨马退后,避免直接搏战。而一旦继续行军,则又凑近来继续放箭。行军速度大大减慢不说,死伤者也一天天在增加。如同旷野上的狼群尾随在疲惫的旅人身后一般,匈奴兵依靠这种战法执拗地追逐前来,在一点点挫伤敌人后,窥探着发起最后一击的机会。
かつ戦い、かつ退きつつ南行することさらに数日、ある山谷の中で漢軍は一日の休養をとった。負傷者もすでにかなりの数に上っている。李陵は全員を点呼して、被害状況を調べたのち、傷の一か所にすぎぬ者には平生どおり兵器を執って闘わしめ、両創を蒙る11者にもなお兵車を助け推さしめ、三創にしてはじめて輦12に乗せて扶け運ぶことに決めた。輸送力の欠乏から屍体はすべて曠野に遺棄するほかはなかったのである。
且战且退,又向南走了几天后,汉军在某个山谷里休整了一天。负伤者已达到相当多的人数了。李陵检点全军,调查受伤情况后,命令负伤一处者照样持兵器作战,负伤两处者协助推军车,负伤达三处者才能躺在车上被推着行军。由于缺少搬抬的人力,尸体只得全部丢弃在旷野。
この夜、陣中視察のとき、李陵はたまたまある輜重車中に男の服を纏うた女を発見した。全軍の車輛について一々調べたところ、同様にしてひそんでいた十数人の女が捜し出された。往年関東の群盗が一時に戮に遇ったとき、その妻子等が逐われて西辺に遷り住んだ。それら寡婦のうち衣食に窮するままに、辺境守備兵の妻となり、あるいは彼らを華客とする娼婦となり果てた者が少なくない。兵車中に隠れてはるばる漠北まで従い来たったのは、そういう連中である。李陵は軍吏に女らを斬るべくカンタンに命じた。彼女らを伴い来たった士卒については一言のふれるところもない。澗間の凹地に引出された女どもの疳高い号泣がしばらくつづいた後、突然それが夜の沈黙に呑まれたようにフッと消えていくのを、軍幕の中の将士一同は粛然たる思いで聞いた。
当晚阵中视察时,李陵偶然在某辆辎重车里发现了一名身穿男子衣服的女人。一一检查全军车辆后,搜出以同样方式躲藏着的女子共十几人。当年关东群盗同时遭戮时,他们的妻女大都被驱逐到西地居住。这批寡妇中有不少人由于缺衣少食,或嫁给边境的守兵,或沦落成以他们为主顾的娼妇。藏在兵车中迢迢跟到漠北来的,就是这样一些人。李陵简短地下令军吏将女人们处死,对于将她们携来此地的士卒则一言未发。被拖到谷间低地上的女人们传出尖利的号哭声。军帐中的将士们肃然倾听着那声音,哭声持续了短暂一会儿之后,忽然像是被黑夜的沉默吞没似的消失掉了。
翌朝、久しぶりで肉薄来襲した敵を迎えて漢の全軍は思いきり快戦した。敵の遺棄屍体三千余。連日の執拗なゲリラ戦術に久しくいらだち屈していた士気が俄かに奮い立った形である。
翌晨,面对敌人久违的迫近来袭,汉军全军尽情快战了一场,令敌人留下尸体三千余具。连日来被执拗的游击战挫伤已久的士气顿然振作。
次の日からまた、もとの竜城の道に循って、南方への退行が始まる。匈奴はまたしても、元の遠巻き戦術に還った。五日め、漢軍は、平沙の中にときに見出される沼沢地の一つに踏入った。水は半ば凍り、泥濘も脛を没する深さで、行けども行けども果てしない枯葦原が続く。風上に廻った匈奴の一隊が火を放った。朔風は焔を煽り、真昼の空の下に白っぽく輝きを失った火は、すさまじい速さで漢軍に迫る。李陵はすぐに附近の葦に迎え火を放たしめて、かろうじてこれを防いだ。
第二天起,沿着龙城古道,继续向南方退军。匈奴再次恢复了远包围战术。第五天,汉军陷入一片在平沙中时有遇到的沼泽地中。水半已冻结,泥泞深可没胫,干枯的苇原连绵不断就象永远走不到头一样。匈奴派出一队人马,绕到上风处点起火来。朔风煽起火势,在正午的天空下,苍白得失去了颜色的火焰以异常的速度向汉军逼去。李陵立刻命令在附近的苇丛迎着放火,才侥幸逃过一劫。
火は防いだが、沮洳地の車行の困難は言語に絶した。休息の地のないままに一夜泥濘の中を歩き通したのち、翌朝ようやく丘陵地に辿りついたとたんに、先廻りして待伏せていた敵の主力の襲撃に遭った。人馬入乱れての搏兵戦である。騎馬隊の烈しい突撃を避けるため、李陵は車を棄てて、山麓の疎林の中に戦闘の場所を移し入れた。
虽然躲过了火难,但沼泽地里行车的困难无法用语言形容。在没有一处地方可以休息的情况下跋涉了一夜泥泞,翌晨总算到达丘陵地带时,汉军遭到了抄近路埋伏在此的敌军主力的袭击。一场人乱马嘶的白刃战开始了。为避开敌军骑旅的猛攻,李陵放弃兵车,把战场转移进山麓的稀树林里。
林間からの猛射はすこぶる効を奏した。たまたま陣頭に姿を現わした単于とその親衛隊とに向かって、一時に連弩を発して乱射したとき、単于の白馬は前脚を高くあげて棒立ちとなり、青袍をまとった胡主はたちまち地上に投出された。親衛隊の二騎が馬から下りもせず、左右からさっと単于を掬い上げると、全隊がたちまちこれを中に囲んですばやく退いて行った。乱闘数刻ののちようやく執拗な敵を撃退しえたが、確かに今までにない難戦であった。遺された敵の屍体はまたしても数千を算したが、漢軍も千に近い戦死者を出したのである。
从林子里向外猛射这一招奏了奇效。在朝着刚好来到阵前的单于及其亲卫队急发连弩、一阵乱射时,只见单于的白马忽地一下高抬前蹄直立起来,把身穿青袍的胡王抛在了地上。亲卫队中立刻冲出两骑,并不下马,一左一右将单于从地上捞起,其他人将他们围在当中,转眼之间退走了。虽说一场混战后终于击退了敌人,但这的确是迄今为止所未有的难役。敌人又留下数千具尸体,汉军也付出了近千名战死者。
そのこの日捕えた胡虜の口から、敵軍の事情の一端を知ることができた。それによれば、単于は漢兵の手強さに驚嘆し、己に二十倍する大軍をも怯れず日に日に南下して我を誘うかに見えるのは、あるいはどこか近くに、伏兵があって、それを恃んでいるのではないかと疑っているらしい。前夜その疑いを単于が幹部の諸将に洩らして事を計ったところ、結局、そういう疑いも確かにありうるが、ともかくも、単于自ら数万騎を率いて漢の寡勢を滅しえぬとあっては、我々の面目に係わるという主戦論が勝ちを制し、これより南四、五十里は山谷がつづくがその間力戦猛攻し、さて平地に出て一戦してもなお破りえないとなったそのときはじめて兵を北に還そうということに決まったという。これを聞いて、校尉韓延年以下漢軍の幕僚たちの頭に、あるいは助かるかもしれぬぞという希望のようなものが微かに湧いた。
从当天俘获的胡虏口中,得知了敌军情况之一斑。据说单于惊叹汉军竟如此强韧,面对相当于自己二十倍的大军不露畏惧,每天南下,似乎其意在于诱敌,或许在附近埋有伏兵,以此为恃也未可知。昨晚单于曾吐露这一疑虑,并向诸将问计,结果主战派的意见——这些疑虑的确有可能,但是单于亲率数万骑兵而不能歼灭汉军寡旅,事关我等面目——占了上风。最后他们决定,在此去向南四五十里山谷相连的地带力战猛攻,等出到平地后再倾力一战,如果还不能破敌,那时就回师北还。听说这些后,校尉韩延年等汉军幕僚的脑海里,轻轻闪过了一丝 “或许还能生还” 的希望。
翌日からの胡軍の攻撃は猛烈を極めた。捕虜の言の中にあった最後の猛攻というのを始めたのであろう。襲撃は一日に十数回繰返された。手厳しい反撃を加えつつ漢軍は徐々に南に移って行く。三日経つと平地に出た。平地戦になると倍加される騎馬隊の威力にものを言わせ匈奴らは遮二無二13漢軍を圧倒しようとかかったが、結局またも二千の屍体を遺して退いた。捕虜の言が偽りでなければ、これで胡軍は追撃を打切るはずである。たかが一兵卒の言った言葉ゆえ、それほど信頼できるとは思わなかったが、それでも幕僚一同些かホッとしたことは争えなかった。
第二天起胡军的攻击极尽猛烈之能事。或许正如俘虏所言,开始了最后的猛攻吧。攻击一天中多达十余次。汉军一面严加反攻,一面徐徐向南移动。三天后来到了平地上。借着一到平地威力倍增的骑兵的优势,匈奴军以排山倒海之势向汉军扑来,但结果又是留下两千具尸体退了回去。如果俘虏所言不假,胡军应该是就此停止追击了。对一名小卒的话当然无法太过相信,但不管怎样,一帮幕僚还是稍微松了口气。
その晩、漢の軍侯、管敢という者が陣を脱して匈奴の軍に亡げ降った。かつて長安都下の悪少年だった男だが、前夜斥候上の手抜かりについて校尉・成安侯韓延年のために衆人の前で面罵され、笞打たれた。それを含んでこの挙に出たのである。先日渓間で斬に遭った女どもの一人が彼の妻だったとも言う。
当晚,汉军一个名叫管敢的军侯脱阵降了匈奴。此人原是长安都下恶少,前一晚曾因为斥候上的过失被校尉成安侯韩延年在众人面前鞭打、责骂,因而怀恨作出此举。也有人说,几天前在谷地被斩的女子中有一人是他的妻子。
管敢は匈奴の捕虜の自供した言葉を知っていた。それゆえ、胡陣に亡げて単于の前に引出されるや、伏兵を懼れて引上げる必要のないことを力説した。言う、漢軍には後援がない。矢もほとんど尽きようとしている。負傷者も続出して行軍は難渋を極めている。漢軍の中心をなすものは、李将軍および成安侯韓延年の率いる各八百人だが、それぞれ黄と白との幟をもって印としているゆえ、明日胡騎の精鋭をしてそこに攻撃を集中せしめてこれを破ったなら、他は容易に潰滅するであろう、云々。単于は大いに喜んで厚く敢を遇し、ただちに北方への引上げ命令を取消した。
管敢听说过匈奴俘虏的供词,因此当亡命胡阵被带到单于面前时,极言没有必要因畏惧伏兵而撤军。他说道:汉军并无后援,而且箭矢殆尽。负伤者层出不穷令行军难滞非常。汉军核心由李将军与成安侯韩延年各自率领的八百人构成,分别以黄、白旗帜为标记;明天只需以胡骑精锐集中攻破彼处,则其余轻易溃灭无疑,等等。单于闻言大喜,厚赐管敢,并立即取消了北撤的命令。
翌日、李陵韓延年速かに降れと疾呼しつつ、胡軍の最精鋭は、黄白の幟を目ざして襲いかかった。その勢いに漢軍は、しだいに平地から西方の山地へと押されて行く。ついに本道から遙かに離れた山谷の間に追込まれてしまった。四方の山上から敵は矢を雨のごとくに注いだ。それに応戦しようにも、今や矢が完全に尽きてしまった。遮虜鄣を出るとき各人が百本ずつ携えた五十万本の矢がことごとく射尽くされたのである。矢ばかりではない。全軍の刀槍矛戟の類も半ばは折れ欠けてしまった。文字どおり刀折れ矢尽きたのである。それでも、戟を失ったものは車輻を斬ってこれを持ち、軍吏は尺刀を手にして防戦した。谷は奥へ進むに従っていよいよ狭くなる。胡卒は諸所の崖の上から大石を投下しはじめた。矢よりもこのほうが確実に漢軍の死傷者を増加させた。死屍と纍石とでもはや前進も不可能になった。
翌日,胡军最精锐的部队一面高呼 “李陵韩延年速降”,一面以黄白旗帜为目标扑来。猛烈的攻势令汉军从平地渐渐退到西边的山地,并最终被驱赶进远离主路的山谷之间。敌人从四面山上放箭如同雨注。即使想应战,到如今箭已经一根不剩了。当初出遮虏鄣时每人各带百支、共计五十万支箭已经悉数射尽。不光是箭,全军刀枪矛戟之类也已折损过半。这真是名副其实的刀折矢尽了。虽然如此,断了戟的人把车轴砍下来拿在手中,军吏们挥动着尺刀,还在继续抵抗。山谷越向里去越狭窄。胡兵从各处山崖上开始向下投掷巨石,这比射箭更显著地增加了汉军死伤。死尸和累石堆积在一起,前进已经不可能了。
その夜、李陵は小袖短衣の便衣を着け、誰もついて来るなと禁じて独り幕営の外に出た。月が山の峡から覗いて谷間に堆い屍を照らした。浚稽山の陣を撤するときは夜が暗かったのに、またも月が明るくなりはじめたのである。月光と満地の霜とで片岡の斜面は水に濡れたように見えた。幕営の中に残った将士は、李陵の服装からして、彼が単身敵陣を窺ってあわよくば14単于と刺違える15所存に違いないことを察した。
当晚,李陵换上窄袖短身的便装,吩咐任何人不得跟随后,独自一人出了帐营。月亮从山峡探进头来照着谷地上堆积的死尸。撤离浚稽山时的夜晚是黑暗的,如今月亮又明亮起来了。月光和满地白霜使孤崖的斜面看起来如同被水浸湿一般。留在帐营中的将士们从李陵的装束猜测,他应该是夜探敌阵、伺机刺杀单于去了。
李陵はなかなか戻って来なかった。彼らは息をひそめてしばらく外の様子を窺った。遠く山上の敵塁から胡笳の声が響く。
李陵迟迟没有回来。众人屏住呼吸倾听着外面的动静。从远处山上的敌垒中传来胡笳的悲声。
かなり久しくたってから、音もなく帷をかかげて李陵が幕の内にはいって来た。だめだ。と一言吐き出すように言うと、踞牀に腰を下した。全軍斬死のほか、途はないようだなと、またしばらくしてから、誰に向かってともなく言った。
许久之后,门帷被无声地掀起,李陵回到了帐中。“罢了,” 吐出两个字后在矮凳上坐下。“看来除了全军战死,没有第二条路了。” 又过了一会儿,他不看任何人,说道。
満座口を開く者はない。ややあって軍吏の一人が口を切り、先年浞野侯趙破奴が胡軍のために生擒られ、数年後に漢に亡げ帰ったときも、武帝はこれを罰しなかったことを語った。この例から考えても、寡兵をもって、かくまで匈奴を震駭させた李陵であってみれば、たとえ都へのがれ帰っても、天子はこれを遇する途を知りたもうであろうというのである。
满座无人张口。片刻后,一名军吏提起了从前浞野侯赵破奴被胡军生擒,几年后逃回汉朝时武帝未加责罚的事。言下之意,从这个例子看来,何况是单凭寡兵如此震撼了匈奴的李陵,即便逃回京师,天子也必定待之有方。
李陵はそれを遮って言う。陵一個のことはしばらく措け、とにかく、今数十矢もあれば一応は囲みを脱出することもできようが、一本の矢もないこの有様では、明日の天明には全軍が坐して縛を受けるばかり。ただ、今夜のうちに囲みを突いて外に出、各自鳥獣と散じて走ったならば、その中にはあるいは辺塞に辿りついて、天子に軍状を報告しうる者もあるかもしれぬ。案ずるに現在の地点は鞮汗山北方の山地に違いなく、居延まではなお数日の行程ゆえ、成否のほどはおぼつかないが、ともかく今となっては、そのほかに残された途はないではないか。
李陵拦住他的话头说道:“陵一己之身暂且不谈。不管怎样,如今但凡有几十支箭,还可以勉力脱围。可照眼下一支箭也没有的情况,到明日天明后全军唯有坐以待缚。除非趁今夜闯出重围,各自作鸟兽散,其中或许有人能抵达边塞,向天子报告军情。算起来如今的位置应该在鞮汗山北部的山地,距离居延还有几天路程,成败与否实难预料。然而既已如此,哪还有第二条路呢?”
諸将僚もこれに頷いた。全軍の将卒に各二升の糒と一個の冰片とが頒たれ、遮二無二、遮虜鄣に向かって走るべき旨がふくめられた。さて、一方、ことごとく漢陣の旌旗を倒しこれを斬って地中に埋めたのち、武器兵車等の敵に利用されうる惧れのあるものも皆打毀した。夜半、鼓して兵を起こした。軍鼓の音も惨として響かぬ。李陵は韓校尉とともに馬に跨がり壮士十余人を従えて先登に立った。この日追い込まれた峡谷の東の口を破って平地に出、それから南へ向けて走ろうというのである。
众幕僚点头称是。于是向全军将士每人发下二升干粮与一块冰片,下达了只管朝着遮虏鄣方向快跑的命令。同时把汉阵的旌旗全部砍倒埋入地下,会被敌人利用的武器兵车也悉数击毁。夜半时分,鸣鼓走兵。军鼓的声音也惨伤不振。李陵与韩延年跨在马上,带领十余名壮士率先冲出。打算冲破今天被敌军赶入的峡谷的东口,从那里上平地向南方疾走。
早い月はすでに落ちた。胡虜の不意を衝いて、ともかくも全軍の三分の二は予定どおり峡谷の裏口を突破した。しかしすぐに敵の騎馬兵の追撃に遭った。徒歩の兵は大部分討たれあるいは捕えられたようだったが、混戦に乗じて敵の馬を奪った数十人は、その胡馬に鞭うって南方へ走った。
早升的月亮已经落下。由于冲胡虏之不备,全军有三分之二按预定计划冲出了峡谷东口。但敌军骑兵立刻追击上来,徒步奔跑的汉兵大都被杀死或被俘虏了。然而其中也有数十人趁混战夺得敌人马匹,鞭打着胡马向南方跑去了。
敵の追撃をふり切って夜目にもぼっと白い平沙の上を、のがれ去った部下の数を数えて、確かに百に余ることを確かめうると、李陵はまた峡谷の入口の修羅場にとって返した。身には数創を帯び、自らの血と返り血とで、戎衣は重く濡れていた。彼と並んでいた韓延年はすでに討たれて戦死していた。麾下を失い全軍を失って、もはや天子に見ゆべき面目はない。彼は戟を取直すと、ふたたび乱軍の中に駈入った。暗い中で敵味方も分らぬほどの乱闘のうちに、李陵の馬が流矢に当たったとみえてガックリ前にのめった。それとどちらが早かったか、前なる敵を突こうと戈を引いた李陵は、突然背後から重量のある打撃を後頭部に喰って失神した。
李陵立马计算着摆脱敌人追击,在夜色中微白的平沙上疾驰而去的部下的数目。确信已超过百人后,他重又回到了峡谷入口处的修罗场。他身受数创,自己的血和敌人的血将戎衣浸得又湿又重;和他并肩作战的韩延年已经战死了。既失部下,且失全军,已无面目再见天子。他手握长戟,再次冲进了乱军中。在几乎难辨敌友的暗夜混战中,李陵的坐骑似乎中了流矢,呼的一下向前栽去。几乎与此同时,正挥戈砍向面前敌人的李陵在后脑上挨了重重一击,顿时失去了意识。
馬から顛落した彼の上に、生擒ろうと構えた胡兵どもが十重二十重16とおり重なって、とびかかった。
跌落在马下的他的身上,争相生擒立功的胡兵重重叠叠地压了上来。
二
九月に北へ立った五千の漢軍は、十一月にはいって、疲れ傷ついて将を失った四百足らずの敗兵となって辺塞に辿りついた。敗報はただちに駅伝をもって長安の都に達した。
九月北上的五千汉军,进入十一月后,化作伤病疲惫、彷徨无主的四百残兵回到了边塞。败讯立刻通过驿马飞报到了长安。
武帝は思いのほか腹を立てなかった。本軍たる李広利の大軍さえ惨敗しているのに、一支隊たる李陵の寡軍にたいした期待のもてよう道理がなかったから。それに彼は、李陵が必ずや戦死しているに違いないとも思っていたのである。ただ、先ごろ李陵の使いとして漠北から「戦線異状なし、士気すこぶる旺盛」の報をもたらした陳歩楽だけは(彼は吉報の使者として嘉せられ郎となってそのまま都に留まっていた)成行17上どうしても自殺しなければならなかった。哀れではあったが、これはやむを得ない。
武帝出人意料并没有发怒。连主力部队李广利的大军都遭到惨败,对不过一支分队的李陵的寡师原本就没有寄予太大的期待。此外武帝也以为,李陵必定是战死无疑了。只是早先李陵派回的使者,从漠北带回 “战线无异状,士气颇为旺盛” 捷讯的陈步乐——他作为捷报使受到嘉赏,封郎并留在了京中——照目前的情况只能自杀了。虽然可哀,但只得如此。
翌、天漢三年の春になって、李陵は戦死したのではない。捕えられて虜に降ったのだという確報が届いた。武帝ははじめて嚇怒した。
到了第二年,天汉三年春,李陵并未战死,而是被俘降敌的确报传回,武帝始作雷霆之怒。
即位後四十余年。帝はすでに六十に近かったが、気象の烈しさは壮時に超えている。神仙の説を好み方士18巫覡19の類を信じた彼は、それまでに己の絶対に尊信する方士どもに幾度か欺かれていた。漢の勢威の絶頂に当たって五十余年の間君臨したこの大皇帝は、その中年以後ずっと、霊魂の世界への不安な関心に執拗につきまとわれていた。それだけに、その方面での失望は彼にとって大きな打撃となった。こうした打撃は、生来闊達だった彼の心に、年とともに群臣への暗い猜疑を植えつけていった。李蔡・青霍・趙周と、丞相たる者は相ついで死罪に行なわれた。現在の丞相たる公孫賀のごとき、命を拝したときに己が運命を恐れて帝の前で手離しで泣出したほどである。硬骨漢汲黯が退いた後は、帝を取巻くものは、佞臣にあらずんば酷吏であった。
在位四十余年的武帝如今已年近六十,然而气象之猛烈比起壮时有增无减。由于好神仙之说,信方士巫覡之言,迄今为止他已经被自己深信不疑的方士们欺骗了数次。这位值汉朝国威绝顶之际君临天下达五十余年的大皇帝,从中年以后,逐渐被一种对灵魂世界不安的好奇牢牢纠缠住了。正因为此,这方面的失望对他形成了巨大的打击。原本生性阔达的他在这些打击之下,内心中逐年滋生着对群臣阴湿的猜疑。李蔡、青翟、赵周等几位丞相接连被赐死罪。如今担任丞相的公孙贺,在拜受帝命时因为担忧自己的命运竟然在皇帝面前哭了出来。硬骨汉汲黯去朝之后,环绕在武帝身边的,非佞臣则为酷吏了。
さて、武帝は諸重臣を召して李陵の処置について計った。李陵の身体は都にはないが、その罪の決定によって、彼の妻子眷属家財などの処分が行なわれるのである。酷吏として聞こえた一廷尉が常に帝の顔色を窺い合法的に法を枉げて帝の意を迎えることに巧みであった。ある人が法の権威を説いてこれを詰ったところ、これに答えていう。前主の是とするところこれが律となり、後主の是とするところこれが令となる。当時の君主の意のほかになんの法があろうぞと。群臣皆この廷尉の類であった。丞相公孫賀、御史大夫杜周、太常、趙弟以下、誰一人として、帝の震怒を犯してまで陵のために弁じようとする者はない。口を極めて彼らは李陵の売国的行為を罵る。陵のごとき変節漢と肩を比べて朝に仕えていたことを思うといまさらながら愧ずかしいと言出した。平生の陵の行為の一つ一つがすべて疑わしかったことに意見が一致した。陵の従弟に当たる李敢が太子の寵を頼んで驕恣であることまでが、陵への誹謗の種子になった。口を緘して意見を洩らさぬ者が、結局陵に対して最大の好意を有つものだったが、それも数えるほどしかいない。
武帝召集诸重臣商议对李陵的处置。李陵人虽然不在京城,但衡量罪情之后,他的妻子眷属家财等将依律受到处分。某廷尉素有酷吏之名,极擅长窥伺武帝脸色,通过合法的方式枉法以迎合帝意。曾经有人用法律的权威诘问他。这位廷尉回答:“前主所是著为律,后主所是疏为令。除了当朝君主的好恶,哪里还有法呢?” 群臣也都是这位廷尉的同类。自丞相公孙贺、御史大夫杜周、太常赵第起,没有一人甘愿冒武帝盛怒为李陵辩护。他们极口痛骂李陵的卖国行为,争相表示曾与李陵这样的变节汉同朝为臣如今想起就觉得惭愧,一致同意李陵平时一言一行尽多可疑之处。就连李陵的堂弟李敢依仗太子宠幸骄恣无行等事,这时也成了诽谤李陵的种子。缄口不发表意见,就是对李陵最大的好意了,然而就连这样的人也是屈指可数。
ただ一人、苦々しい顔をしてこれらを見守っている男がいた。今口を極めて李陵を讒誣しているのは、数か月前李陵が都を辞するときに盃をあげて、その行を壮んにした連中ではなかったか。漠北からの使者が来て李陵の軍の健在を伝えたとき、さすがは名将李広の孫と李陵の孤軍奮闘を讃えたのもまた同じ連中ではないのか。恬20として既往を忘れたふりのできる顕官連や、彼らの諂諛を見破るほどに聡明ではありながらなお真実に耳を傾けることを嫌う君主が、この男には不思議に思われた。いや、不思議ではない。人間がそういうものとは昔からいやになるほど知ってはいるのだが、それにしてもその不愉快さに変わりはないのである。
唯独一个男子,在一旁表情苦涩地看着这一切。如今极口诬陷李陵的,不正是几个月前李陵辞京时举盏为他壮行的人们吗?当来自漠北的使者传回陵军健在的消息时,不正是这些人竞相称赞李陵孤军奋战、不愧为名将李广之孙的吗?在这个男子眼里,恬然貌似不记得过去这一切的显官们,还有聪明得足以看破他们的谄谀却仍然厌听真话的君主,都显得是那么不可思议。不,并非不可思议。人本来就是这样,对此自己早就了解到了腻烦的程度。可虽然如此,这种不快感却依然无法改变。
下大夫の一人として朝につらなっていたために彼もまた下問を受けた。そのとき、この男はハッキリと李陵を褒め上げた。言う。陵の平生を見るに、親に事えて孝、士と交わって信、常に奮って身を顧みずもって国家の急に殉ずるは誠に国士のふうありというべく、今不幸にして事一度破れたが、身を全うし妻子を保んずることをのみただ念願とする君側の佞人ばらが、この陵の一失を取上げてこれを誇大歪曲しもって上の聡明を蔽おうとしているのは、遺憾この上もない。そもそも陵の今回の軍たる、五千にも満たぬ歩卒を率いて深く敵地に入り、匈奴数万の師を奔命に疲れしめ、転戦千里、矢尽き道窮まるに至るもなお全軍空弩を張り、白刃を冒して死闘している。部下の心を得てこれに死力を尽くさしむること、古の名将といえどもこれには過ぎまい。軍敗れたりとはいえ、その善戦のあとはまさに天下に顕彰するに足る。思うに、彼が死せずして虜に降ったというのも、ひそかにかの地にあって何事か漢に報いんと期してのことではあるまいか。……
作为一名下大夫列朝的这位男子也被征询了意见。这时,他毫不踌躇地称赞了李陵,说道:“试观李陵平生,事亲孝,与士交信,常奋不顾身以殉国家之急,诚有国士之风。今不幸事破,唯念全躯保妻子之君侧佞人借李陵此一失,夸大歪曲,欲蒙蔽圣主明鉴,遗憾莫过于此。且陵此次率区区五千士卒,深入敌地,令匈奴数万之师疲于奔命。转战千里,矢尽道穷,犹张空弩,冒白刃与敌死斗。能使部下归心,尽其死力,虽古之名将莫及。虽然军败,然其善战之功正足以彰显天下。念之,陵之不死降虏,岂非潜于彼地,欲期有以报汉者乎?……”
並いる群臣は驚いた。こんなことのいえる男が世にいようとは考えなかったからである。彼らはこめかみを顫わせた武帝の顔を恐る恐る見上げた。それから、自分らをあえて全躯保妻子の臣と呼んだこの男を待つものが何であるかを考えて、ニヤリとするのである。
列座的群臣都惊讶了,世上竟然有敢于说出这种话的男子。他们小心翼翼地抬眼观望武帝抽搐着嘴角的面孔,想象着竟敢称自己为 “全躯保妻子之臣” 的此人今后的命运,暗自微笑了。
向こう見ずなその男――太史令・司馬遷が君前を退くと、すぐに、「全躯保妻子の臣」の一人が、遷と李陵との親しい関係について武帝の耳に入れた。太史令は故あって弐師将軍と隙あり、遷が陵を褒めるのは、それによって、今度、陵に先立って出塞して功のなかった弐師将軍を陥れんがためであると言う者も出てきた。ともかくも、たかが星暦卜祀を司るにすぎぬ太史令の身として、あまりにも不遜な態度だというのが、一同の一致した意見である。
这名不知瞻前顾后的男子——太史令司马迁从御前退下后,立刻有一名 “全躯保妻子之臣” 向武帝汇报了司马迁和李陵的亲密关系。接着又有人进言,指出太史令因故与贰师将军有隙,之所以盛赞李陵,无非是想借此机会陷先于李陵出塞但无功而返的贰师将军于不利。总之,众人一致认为,作为区区一名以掌管星历卜祝为职的太史令,其态度过于不逊。
おかしなことに、李陵の家族よりも司馬遷のほうが先に罪せられることになった。
离奇的是,比起李陵的家族,司马迁先被问罪了。第二天他就被廷尉拘捕,判处宫刑。
支那で昔から行なわれた肉刑の主なるものとして、黥、劓(はなきる)、剕(あしきる)、宮、の四つがある。武帝の祖父・文帝のとき、この四つのうち三つまでは廃せられたが、宮刑のみはそのまま残された。宮刑とはもちろん、男を男でなくする奇怪な刑罰である。これを一に腐刑ともいうのは、その創が腐臭を放つがゆえだともいい、あるいは、腐木の実を生ぜざるがごとき男と成り果てるからだともいう。この刑を受けた者を閹人と称し、宮廷の宦官の大部分がこれであったことは言うまでもない。
在中国,自古以来沿用的肉体刑罚主要有黥、劓、剕、宫四种。武帝的祖父文帝在位时,废除了四种刑罚中的三种,唯独保留了宫刑。所谓宫刑,不消说就是把男人变得不是男人的古怪刑法。它又称腐刑,有人说是缘自创口发出腐臭的缘故,也有人说是缘于腐木不生果实的比喻。受过此刑的人俗称阉人,宫廷中的宦官大多由此而来。
人もあろうに司馬遷がこの刑に遭ったのである。しかし、後代の我々が史記の作者として知っている司馬遷は大きな名前だが、当時の太史令司馬遷は眇たる一文筆の吏にすぎない。頭脳の明晰なことは確かとしてもその頭脳に自信をもちすぎた、人づき合いの悪い男、議論においてけっして他人に負けない男、たかだか強情我慢の偏窟人としてしか知られていなかった。彼が腐刑に遇ったからとて別に驚く者はない。
司马迁受到的偏偏就是这种刑罚。对后世的我们来说,《史记》的作者司马迁是一个无比响亮的名字,然而在当时,太史令司马迁不过是一个地位卑微的文笔吏罢了。在周围人眼里,他只是个不善与人交往,就算头脑明晰也对其头脑过于自信,并且在辩论时绝不肯输给任何人的我行我素的怪人。没有人会因为他受了宫刑而觉得特别意外。
司馬氏は元周の史官であった。後、晋に入り、秦に仕え、漢の代となってから四代目の司馬談が武帝に仕えて建元年間に太史令をつとめた。この談が遷の父である。専門たる律・暦・易のほかに道家の教えに精しくまた博く儒、墨、法、名、諸家の説にも通じていたが、それらをすべて一家の見をもって綜べて自己のものとしていた。己の頭脳や精神力についての自信の強さはそっくりそのまま息子の遷に受嗣がれたところのものである。彼が、息子に施した最大の教育は、諸学の伝授を終えてのちに、海内の大旅行をさせたことであった。当時としては変わった教育法であったが、これが後年の歴史家司馬遷に資するところのすこぶる大であったことは、いうまでもない。
司马氏原本是周朝的史官。周亡后入晋、仕秦,至汉代时,第四代司马谈在武帝治下于建元年间出任太史令。谈就是迁的父亲。他除律、历、易等专攻外,精研道家教义,博采儒、墨、法、名诸家学说,并将它们融汇贯通,独成一家之见。司马谈对自己的头脑和精神力量有着高度自矜,这一点也被儿子司马迁原封不动地继承了。他对儿子最大的教育,是在传授完诸家学说后,让迁在海内纵横旅行。这在当时称得上罕见的教育方法,但无疑对后来的历史学家司马迁所资甚厚。
元封元年に武帝が東、泰山に登って天を祭ったとき、たまたま周南で病床にあった熱血漢司馬談は、天子始めて漢家の封を建つるめでたきときに、己一人従ってゆくことのできぬのを慨き、憤を発してそのために死んだ。古今を一貫せる通史の編述こそは彼の一生の念願だったのだが、単に材料の蒐集のみで終わってしまったのである。その臨終の光景は息子・遷の筆によって詳しく史記の最後の章に描かれている。それによると司馬談は己のまた起ちがたきを知るや遷を呼びその手を執って、懇ろに修史の必要を説き、己太史となりながらこのことに着手せず、賢君忠臣の事蹟を空しく地下に埋もれしめる不甲斐なさを慨いて泣いた。「予死せば汝必ず太史とならん。太史とならばわが論著せんと欲するところを忘るるなかれ」といい、これこそ己に対する孝の最大なものだとて、爾それ念えやと繰返したとき、遷は俯首流涕してその命に背かざるべきを誓ったのである。
元丰元年,武帝东临泰山举行祭天大典时,热血汉司马谈不巧正卧病在周南(洛阳)。他由于慨叹在天子始建汉家之封这样的盛事时,唯独自己不能追随其侧,竟愤而死去。司马谈一生的愿望是编述古今一贯的通史,结果只来得及搜集到大部分资料。临终的光景通过儿子司马迁的笔致详细描写在《史记》最后一章。据该处记载,谈在知道自己大限将至后把迁唤至面前,拉着他的手恳言修史的必要,并慨叹自己身为太史未能完成此事,徒令贤君忠臣的事迹空埋地下,以至于泣下。司马谈道:“余死,汝必为太史。为太史,无忘余所欲论著矣。” 并再三叮咛此乃孝之大者,不可或忘。司马迁俯首流涕,发誓不违父命。
父が死んでから二年ののち、はたして、司馬遷は太史令の職を継いだ。父の蒐集した資料と、宮廷所蔵の秘冊とを用いて、すぐにも父子相伝の天職にとりかかりたかったのだが、任官後の彼にまず課せられたのは暦の改正という事業であった。この仕事に没頭することちょうど満四年。太初元年にようやくこれを仕上げると、すぐに彼は史記の編纂に着手した。遷、ときに年四十二。
父亲死后两年,司马迁果然继承了太史令一职。他本想利用父亲搜集的资料与宫庭收藏的秘册,立即投入到修史这一父子相传的天职中,但就任后他首先被委派了修订历法的重任。埋头这项工作整整四年。太初元年,历法终于完成,他立刻开始了《史记》的编纂。司马迁时年四十二岁。
腹案はとうにでき上がっていた。その腹案による史書の形式は従来の史書のどれにも似ていなかった。彼は道義的批判の規準を示すものとしては春秋を推したが、事実を伝える史書としてはなんとしてもあきたらなかった。もっと事実が欲しい。教訓よりも事実が。左伝や国語になると、なるほど事実はある。左伝の叙事の巧妙さに至っては感嘆のほかはない。しかし、その事実を作り上げる一人一人の人についての探求がない。事件の中における彼らの姿の描出は鮮やかであっても、そうしたことをしでかすまでに至る彼ら一人一人の身許調べの欠けているのが、司馬遷には不服だった。それに従来の史書はすべて、当代の者に既往をしらしめることが主眼となっていて、未来の者に当代を知らしめるためのものとしての用意があまりに欠けすぎているようである。要するに、司馬遷の欲するものは、在来21の史には求めて得られなかった。
腹稿早已经有了。腹稿中构思的史书和以往任何一本史书的形式都不相同。在展示道义批评的准则方面,他首推《春秋》,但在传达事实方面,每本史书都令他觉得不尽如意。需要更多的事实。比起教义来,更需要事实。不错,《左传》和《国语》中的确有事实,尤其是《左传》巧妙的叙事令人叹服。但是,在那里看不到对创造事实的个人的探究。人们在事件中的身姿虽然被描绘得很鲜明,但是对导致做出那些事件的他们每一个人自我的诠索却不够,这一点最令司马迁感到不满。此外,过去的史书似乎全都过于注重向当代人告知从前,以致忽略了让将来的人了解当代。一言以蔽之,司马迁所想要的,在既往的史书中未能找到。
どういう点で在来の史書があきたらぬかは、彼自身でも自ら欲するところを書上げてみてはじめて判然する底のものと思われた。彼の胸中にあるモヤモヤと鬱積したものを書き現わすことの要求のほうが、在来の史書に対する批判より先に立った。いや、彼の批判は、自ら新しいものを創るという形でしか現われないのである。自分が長い間頭の中で画いてきた構想が、史といえるものか、彼には自信はなかった。しかし、史といえてもいえなくても、とにかくそういうものが最も書かれなければならないものだ(世人にとって、後代にとって、なかんずく22己自身にとって)という点については、自信があった。彼も孔子に倣って、述べて作らぬ方針をとったが、しかし、孔子のそれとはたぶんに内容を異ことにした述而不作である、司馬遷にとって、単なる編年体の事件列挙はいまだ「述べる」の中にはいらぬものだったし、また、後世人の事実そのものを知ることを妨げるような、あまりにも道義的な断案は、むしろ「作る」の部類にはいるように思われた。
究竟是在哪一点对以前的史书不满,连他自己也只有到把想写的东西写出来之后才会知道。在他胸中,郁积着一团模糊的东西,在要求获得表现。这是在批判过去的史书之前就已经产生的。或者更准确地说,他的批判只有通过主动创造新的东西才能表达。长期以来在自己脑海中描画的构想到底能不能称为 “史”,他自己也没有信心。但不管能不能称为 “史”,总之这样的东西最应该被写出来(对世人,对后代,尤其对自己),这一点他是有自信的。他效仿孔子,采取 “述而不作” 的方针。但是他的述而不作在内容上与孔子大相径庭。对司马迁来说,用编年体方式单纯地列举事件尚未进入 “述” 的领域,而作那些妨碍后人了解事实的过于道义性的断言,又毋宁属于 “作” 的范畴。
漢が天下を定めてからすでに五代・百年、始皇帝の反文化政策によって湮滅しあるいは隠匿されていた書物がようやく世に行なわれはじめ、文の興らんとする気運が鬱勃として感じられた。漢の朝廷ばかりでなく、時代が、史の出現を要求しているときであった。司馬遷個人としては、父の遺嘱による感激が学殖23・観察眼・筆力の充実を伴ってようやく渾然たるものを生み出すべく醗酵しかけてきていた。彼の仕事は実に気持よく進んだ。むしろ快調に行きすぎて困るくらいであった。というのは、初めの五帝本紀から夏殷周秦本紀あたりまでは、彼も、材料を按排して記述の正確厳密を期する一人の技師に過ぎなかったのだが、始皇帝を経て、項羽本紀にはいるころから、その技術家の冷静さが怪しくなってきた。ともすれば、項羽が彼に、あるいは彼が項羽にのり移りかねないのである。
汉朝平定天下已有五代百年,曾经在秦始皇的反文化政策下或湮灭或藏匿的书籍逐渐重行问世,一股文运将兴的气运郁勃可感。不仅汉朝的朝廷,时代也正是要求史书出现的时代。从司马迁个人来讲,父亲遗嘱留下的感动,以及日益充实的学养、眼光和笔力相辅相成,酝酿着一个即将诞生的浑然之物。他的工作顺利地进行着。有时甚至会因为过于顺利而使他感到困惑。这么说是因为,从最初的《五帝本纪》到夏殷周秦《本纪》的部分为止,他不过是一位精心安排材料、叙述务期准确严密的技师;而当经过《始皇帝本纪》,进入《项羽本纪》后,那份技术家的冷静逐渐动摇起来。稍不留神,项羽就会附向他,或者他自己会附向项羽身上。
項王則チ夜起キテ帳中ニ飲ス。美人有リ。名ハ虞。常ニ幸セラレテ従フ。駿馬名ハ騅、常ニ之ニ騎ス。是ニ於テ項王乃チ悲歌慷慨シ自ラ詩ヲ為リテ曰ク「力山ヲ抜キ気世ヲ蓋フ、時利アラズ騅逝カズ、騅逝カズ奈何スベキ、虞ヤ虞ヤ若ヲ奈何ニセン」ト。歌フコト数闋、美人之ニ和ス。項王泣数行下ル。左右皆泣キ、能ク仰ギ視ルモノ莫シ……。
项王则夜起,饮帐中。有美人名虞,常幸从。骏马名骓,常骑之。于是项王乃悲歌慷慨,自为诗曰:“力拔山兮气盖世,时不利兮骓不逝。骓不逝兮可奈何,虞兮虞兮奈若何!”歌数阙,美人和之。项王泣数行下,左右皆泣,莫能仰视。……
これでいいのか? と司馬遷は疑う。こんな熱に浮かされたような書きっぷりでいいものだろうか? 彼は「作ル」ことを極度に警戒した。自分の仕事は「述ベル」ことに尽きる。事実、彼は述べただけであった。しかしなんと生気溌剌たる述べ方であったか? 異常な想像的視覚を有った者でなければとうてい不能な記述であった。
这样写也可以吗?司马迁暗自疑惑。如此热切的写法是否没有问题?他一直高度警惕着 “作” 的侵入。自己的工作应该止于 “述” 之一事。事实上,他的确只是在 “述”。但这是怎样生机焕发的叙述方式!不具备超乎寻常的视觉性想象的人决不可能有这样的叙述。
彼は、ときに「作ル」ことを恐れるのあまり、すでに書いた部分を読返してみて、それあるがために史上の人物が現実の人物のごとくに躍動すると思われる字句を削る。すると確かにその人物はハツラツたる呼吸を止やめる。これで、「作ル」ことになる心配はないわけである。しかし、(と司馬遷が思うに)これでは項羽が項羽でなくなるではないか。項羽も始皇帝も楚の荘王もみな同じ人間になってしまう。違った人間を同じ人間として記述することが、何が「述べる」だ? 「述べる」とは、違った人間は違った人間として述べることではないか。そう考えてくると、やはり彼は削った字句をふたたび生かさないわけにはいかない。元どおりに直して、さて一読してみて、彼はやっと落ちつく。いや、彼ばかりではない。そこにかかれた史上の人物が、項羽や樊噲や范増が、みんなようやく安心してそれぞれの場所に落ちつくように思われる。
有时,他会因过于担心 “作” 而重读写好的部分,将那些使历史人物如同现实中的人物一样呼之欲出的字句删掉。这样一来,人物的确停住了热辣辣的呼吸,应该没有沦为 “作” 的担心了。但是,——司马迁自问:这样的项羽还是项羽吗?项羽也好,秦始皇或楚庄王也好,全成了同样的人。把不同的人叙述成同一个样子就是 “述” 吗?所谓 “述”,难道不是把原本不同的人按照原本不同的样子来叙述吗?想到这里,他只得让删掉的词句重新复活。恢复原来的样子,重读一遍,他这才放下心来。不光是他,写在纸上的那些历史人物,项羽啦,樊哙啦,范增啦,也这才各得其所,全都放下心来了。
調子のよいときの武帝は誠に高邁闊達な・理解ある文教の保護者だったし、太史令という職が地味な特殊な技能を要するものだったために、官界につきものの朋党比周の擠陥讒誣による地位(あるいは生命)の不安定からも免れることができた。
武帝在心情好的时候诚然是英迈阔达、富于理解的文教的保护者。同时太史令这一职务因为需要朴素的特殊技能,也得以免去官场中各种朋党比周、排挤诬陷所引起的地位(乃至生命)的不稳定。
数年の間、司馬遷は充実した・幸福といっていい日々を送った。(当時の人間の考える幸福とは、現代人のそれと、ひどく内容の違うものだったが、それを求めることに変わりはない。)妥協性はなかったが、どこまでも陽性で、よく論じよく怒りよく笑いなかんずく論敵を完膚なきまでに説破することを最も得意としていた。
几年里,司马迁度过了充实幸福的时光。(当时的人所考虑的幸福和现代人在内容上虽然大不相同,但在追求幸福这一点上完全一样。)在司马迁身上找不到妥协之处,从头到脚都充满阳刚,率性议论、大怒大笑,而尤以将论敌驳得体无完肤最为快事。
さて、そうした数年ののち、突然、この禍が降ったのである。
这样过了几年之后,突然天降此祸。
薄暗い蚕室の中で――腐刑施術後当分の間は風に当たることを避けねばならぬので、中に火を熾おこして暖かに保った・密閉した暗室を作り、そこに施術後の受刑者を数日の間入れて、身体を養わせる。暖かく暗いところが蚕を飼う部屋に似ているとて、それを蚕室と名づけるのである。――言語を絶した混乱のあまり彼は茫然ぼうぜんと壁によりかかった。
昏暗的蚕室里——由于刚受腐刑后不能见风,所以盖起这种密闭的暗室,室内生火保持一定温度,令受刑者在这里待上几天,休养身体。因为在温暖昏暗这一点上很象养蚕的房间,所以称为蚕室。——被极度混乱夺去了所有言语的他茫然靠在墙上。
斬に遭うこと、死を賜うことに対してなら、彼にはもとより平生から覚悟ができている。刑死する己の姿なら想像してみることもできるし、武帝の気に逆らって李陵を褒め上げたときもまかりまちがえば24死を賜うようなことになるかもしれぬくらいの懸念は自分にもあったのである。ところが、刑罰も数ある中で、よりによって最も醜陋な宮刑にあおうとは! 迂闊といえば迂闊だが、(というのは、死刑を予期するくらいなら当然、他のあらゆる刑罰も予期しなければならないわけだから)彼は自分の運命の中に、不測の死が待受けているかもしれぬとは考えていたけれども、このような醜いものが突然現われようとは、全然、頭から考えもしなかったのである。
在感到激愤之前,他甚至先感到了某种惊奇。如果是斩刑或者赐死,他早就有心理准备。他可以想象出被斩首的自己的样子;在逆武帝之意替李陵辩护时,也想过弄不好有可能会被赐死。然而在这么多刑罚中,偏偏遭受了这个最丑陋的宫刑!说是迂阔也罢(既然能预见到死刑,当然也应该预见到其他任何刑罚),他虽然想过在自己的命运中,或许潜伏着不测之死,但从来没想过会突然出现这样丑恶的东西。
常々、彼は、人間にはそれぞれその人間にふさわしい事件しか起こらないのだという一種の確信のようなものを有っていた。これは長い間史実を扱っているうちに自然に養われた考えであった。同じ逆境にしても、慷慨の士には激しい痛烈な苦しみが、軟弱の徒には緩慢なじめじめした醜い苦しみが、というふうにである。たとえ始めは一見ふさわしくないように見えても、少なくともその後の対処のし方によってその運命はその人間にふさわしいことが判ってくるのだと。司馬遷は自分を男だと信じていた。文筆の吏ではあっても当代のいかなる武人よりも男であることを確信していた。自分でばかりではない。このことだけは、いかに彼に好意を寄せぬ者でも認めないわけにはいかないようであった。それゆえ、彼は自らの持論に従って、車裂の刑なら自分の行く手に思い画くことができたのである。
他常常抱有一种确信,那就是每个人身上只会发生和他本人相符的事件。这是在长期接触史实的过程中自然形成的一种想法。同样是逆境,慷慨之士承受激烈悲壮的痛苦,软弱之徒则忍受阴湿丑陋的痛苦。即使一开始看上去不相称,但是从后来应对命运的方式中,也可以看出该命运与该人是相一致的。司马迁自信是大丈夫,虽然身为文笔之吏,却比当今任何一员武将都更是大丈夫。不只他自己这么想,这一点似乎连再不喜欢他的人都不得不承认。哪怕是因自己的主张被判车裂之刑,他也能想像出自己的样子。
それが齢五十に近い身で、この辱しめにあおうとは! 彼は、今自分が蚕室さんしつの中にいるということが夢のような気がした。夢だと思いたかった。しかし、壁によって閉じていた目を開くと、うす暗い中に、生気のない・魂までが抜けたような顔をした男が三、四人、だらしなく横たわったりすわったりしているのが目にはいった。あの姿が、つまり今の己なのだと思ったとき、嗚咽とも怒号ともつかない叫びが彼の咽喉を破った。
然而以年近五十之身,遭此奇耻大辱!他似乎觉得自己置身蚕室这一事实是在做梦。真希望是在做梦。然而靠在墙上,睁开紧闭的双眼,看到一片昏暗中,三四个毫无生气、似乎魂魄都已出窍的男子如同烂泥一般或躺或坐,想到这也就是自己现在的样子时,分不清是呜咽还是怒号的喊声冲破了他的喉咙。
痛憤と煩悶との数日のうちには、ときに、学者としての彼の習慣からくる思索が――反省が来た。いったい、今度の出来事の中で、何が――誰が――誰のどういうところが、悪かったのだという考えである。日本の君臣道とは根柢から異なった彼の国のこととて、当然、彼はまず、武帝を怨んだ。一時はその怨懣だけで、いっさい他を顧みる余裕はなかったというのが実際であった。
痛恨与烦闷交织不断的几天里,有时,作为学者已成为习惯的思索——反省——会涌上心来。在这次的事情中,到底是什么、是谁、是谁的哪一点错了呢?虽然在他的国家里君臣之道和日本大相径庭,但自然,他首先怨恨的是武帝。事实上,有一段时间里由于满腔的怨恨,他几乎失去了顾及其它一切的余地。
しかし、しばらくの狂乱の時期の過ぎたあとには、歴史家としての彼が、目覚めてきた。儒者と違って、先王の価値にも歴史家的な割引をすることを知っていた彼は、後王たる武帝の評価の上にも、私怨のために狂いを来たさせることはなかった。なんといっても武帝は大君主である。そのあらゆる欠点にもかかわらず、この君がある限り、漢の天下は微動だもしない。高祖はしばらく措くとするも、仁君文帝も名君景帝も、この君に比べれば、やはり小さい。ただ大きいものは、その欠点までが大きく写ってくるのは、これはやむを得ない。司馬遷は極度の憤怨のうちにあってもこのことを忘れてはいない。今度のことは要するに天の作せる疾風暴雨霹靂に見舞われたものと思うほかはないという考えが、彼をいっそう絶望的な憤りへと駆かったが、また一方、逆に諦観へも向かわせようとする。
但是,经过短暂的狂乱之后,作为历史学家的他醒了过来。和儒者不同,对所谓先王之道他懂得进行历史学家的衡量,同样,在对后王武帝的评价上,他也不会因为私怨混淆标准。无论如何,武帝都是位大帝。即便有这样那样的缺点,但只要这位帝王还在,汉朝的天下就会稳如泰山。高祖暂且不论,就连仁君文帝和名君景帝,与这位帝王比起来也还有些相形见绌。只是作为大器,相应地缺点也大,这也是无可奈何之事。司马迁即使在极度的愤懑中,也没有忘记这一点。看来,这次的事只能当作是被上天的疾风暴雨雷霆霹雳给作弄了。这想法既把他推向更深的绝望与愤怒,可同时也令他转向达观的方向。
怨恨が長く君主に向かい得ないとなると、勢い、君側の姦臣に向けられる。彼らが悪い。たしかにそうだ。しかし、この悪さは、すこぶる副次的な悪さである。それに、自矜心の高い彼にとって、彼ら小人輩は、怨恨の対象としてさえ物足りない気がする。
怨恨在无法长期集中于君主身上之后,又一气转向了君侧的奸臣。他们是恶的,的确不假。然而他们的恶,是非常次要的恶。并且对高度自矜的他来说,那些小人连作为怨恨的对象都不够。
彼は、今度ほど好人物というものへの腹立ちを感じたことはない。これは姦臣や酷吏よりも始末が悪い。少なくとも側から見ていて腹が立つ。良心的に安っぽく安心しており、他にも安心させるだけ、いっそう怪しからぬのだ。弁護もしなければ反駁もせぬ。心中、反省もなければ自責もない。丞相公孫賀のごとき、その代表的なものだ。同じ阿諛迎合を事としても、杜周(最近この男は前任者王卿を陥れてまんまと御史大夫となりおおせた)のような奴は自らそれと知っているに違いないがこのお人好しの丞相ときた日には、その自覚さえない。自分に全躯保妻子の臣といわれても、こういう手合いは、腹も立てないのだろう。こんな手合いは恨みを向けるだけの値打ちさえもない。
他至今为止,从没有象这次对所谓的老好人感到愤怒。这些人比奸臣酷吏更糟糕,至少从旁看来令人恼火。廉价地安于自己的良心,并只求令周围人放心,因此愈发显得奇怪。既不辩护也不反驳,在内心既无反省也无自责。丞相公孙贺那样的,是其中的典型。同是阿谀迎合,杜周(最近此人靠陷害前任王卿遂了当御史大夫的愿)之流无疑知道自己在做什么。而这位老好人的丞相,恐怕连这点自觉都没有。即使被自己称作 “全躯保妻子之臣”,这种人大概连生气都不会吧。这种人连作为仇恨的对象也都不值得。
司馬遷は最後に忿懣の持って行きどころを自分に求めようとする。実際、何ものかに対して腹を立てなければならぬとすれば、結局それは自分自身に対してのほかはなかったのである。だが、自分のどこが悪かったのか? 李陵のために弁じたこと、これはいかに考えてみてもまちがっていたとは思えない。方法的にも格別拙かったとは考えぬ。阿諛に堕するに甘んじないかぎり、あれはあれでどうしようもない。それでは、自ら顧みてやましくなければ、そのやましくない行為が、どのような結果を来たそうとも、士たる者はそれを甘受しなければならないはずだ。なるほどそれは一応そうに違いない。だから自分も肢解されようと腰斬にあおうと、そういうものなら甘んじて受けるつもりなのだ。
司马迁最后试图在自己身上寻找愤懑的归宿。事实上,无论对什么东西感到愤怒,最终都不过是对自己的愤怒而已。但是自己究竟哪一点错了呢?为李陵辩护,这无论怎么想、怎么看都是不错的。使用的方法也不能说特别笨拙。只要不甘心沦为阿谀,那件事也只能按那样做了。那么如果自问心中无愧,这种无愧的行为无论招致怎样的后果,作为士不都应该甘心承受吗?的确,是这样,所以自己早就打算好无论肢解还是腰斩,全都挺身甘受。
しかし、この宮刑は――その結果かく成り果てたわが身の有様というものは、――これはまた別だ。同じ不具でも足を切られたり鼻を切られたりするのとは全然違った種類のものだ。士たる者の加えられるべき刑ではない。こればかりは、身体のこういう状態というものは、どういう角度から見ても、完全な悪だ。飾言の余地はない。そうして、心の傷だけならば時とともに癒えることもあろうが、己が身体のこの醜悪な現実は死に至るまでつづくのだ。動機がどうあろうと、このような結果を招くものは、結局「悪かった」といわなければならぬ。しかし、どこが悪かった? 己のどこが? どこも悪くなかった。己は正しいことしかしなかった。強いていえば、ただ、「我あり」という事実だけが悪かったのである。
但是,唯独宫刑——还有作为其结果变成了这副样子的自己——又另当别论。同是残疾,这与砍脚刓鼻截然不同。这不是应该加给士的刑罚。唯独这个,唯独身体的这种状态,从任何角度看都是恶的,没有丝毫饰言的余地。并且内心的伤口随着时间流逝或许还能愈合,而自己身体的这一丑恶现实一直到死都将持续。无论动机如何,招致这样的结果也只能说是 “错了”。但是,究竟哪里错了呢?我的哪里?哪里都没有错。我只做了正确的事。勉强要说的话,只有“我在”这一事实本身错了。
茫然とした虚脱の状態ですわっていたかと思うと、突然飛上り、傷ついた獣のごとくうめきながら暗く暖かい室の中を歩き廻る。そうしたしぐさを無意識に繰返しつつ、彼の考えもまた、いつも同じ所をぐるぐる廻ってばかりいて帰結するところを知らないのである。
茫然在虚脱状态中坐了许久后,司马迁突然跳起,好像受伤的野兽一样一边呻叹一边在阴暗温暖的室内四处徘徊。在无意识地重复着这一举动的同时,他的思考也一直在同一个地方团团打转找不到出口。
我を忘れ壁に頭を打ちつけて血を流したその数回を除けば、彼は自らを殺そうと試みなかった。死にたかった。死ねたらどんなによかろう。それよりも数等恐ろしい恥辱が追立てるのだから死をおそれる気持は全然なかった。なぜ死ねなかったのか? 獄舎の中に、自らを殺すべき道具のなかったことにもよろう。しかし、それ以外に何かが内から彼をとめる。はじめ、彼はそれがなんであるかに気づかなかった。ただ狂乱と憤懣との中で、たえず発作的に死への誘惑を感じたにもかかわらず、一方彼の気持を自殺のほうへ向けさせたがらないものがあるのを漠然と感じていた。何を忘れたのかはハッキリしないながら、とにかく何か忘れものをしたような気のすることがある。ちょうどそんなぐあいであった。
除了有几次神志不清时,曾经把头在墙上撞得鲜血直流以外,他没有尝试自杀。真想死去。如果能死去的话该有多好。在比死还要可怕几倍的耻辱的追逼之下,他对死没有任何恐惧。为什么没有死呢?也许是因为牢舍中没有用于自杀的工具。但除此以外,似乎还有什么发自内心的东西阻止了他。最初他没有觉察出那是什么。只是在狂乱与愤懑中,在间歇性发作似的感到死的诱惑的同时,朦胧中觉得有什么东西在阻止自己的心情滑向自杀的方向。正好像虽然想不起忘了什么,可就是觉得忘了东西时的情形。
許されて自宅に帰り、そこで謹慎するようになってから、はじめて、彼は、自分がこの一月狂乱にとり紛れて己が畢生の事業たる修史のことを忘れ果てていたこと、しかし、表面は忘れていたにもかかわらず、その仕事への無意識の関心が彼を自殺から阻む役目を隠々のうちにつとめていたことに気がついた。
获释回到家中,开始闭门思过之后,他才发觉,自己在这一个月的狂乱中竟然把修史这一毕生事业忘了个干干净净。可同时,他又感到,虽然表面上像是忘了,但事实上正是对这项工作的下意识的关心在冥冥中起到了阻止自己自杀的作用。
十年前臨終の床で自分の手をとり泣いて遺命した父の惻々たる言葉は、今なお耳底にある。しかし、今疾痛惨怛を極きわめた彼の心の中に在ってなお修史の仕事を思い絶たしめないものは、その父の言葉ばかりではなかった。それは何よりも、その仕事そのものであった。仕事の魅力とか仕事への情熱とかいう怡しい態のものではない。修史という使命の自覚には違いないとしてもさらに昂然として自らを恃じする自覚ではない。恐ろしく我の強い男だったが、今度のことで、己のいかにとるに足らぬものだったかをしみじみと考えさせられた。理想の抱負のと威張いばってみたところで、所詮己は牛にふみつぶされる道傍の虫けらのごときものにすぎなかったのだ。「我」はみじめに踏みつぶされたが、修史という仕事の意義は疑えなかった。このような浅ましい身と成り果て、自信も自恃も失いつくしたのち、それでもなお世にながらえてこの仕事に従うということは、どう考えても怡しいわけはなかった。それはほとんど、いかにいとわしくとも最後までその関係を絶つことの許されない人間同士のような宿命的な因縁に近いものと、彼自身には感じられた。とにかくこの仕事のために自分は自らを殺すことができぬのだ(それも義務感からではなく、もっと肉体的な、この仕事との繋がりによってである)ということだけはハッキリしてきた。
父亲十年前在临终的病榻上,拉着自己的手哭着留下遗命时凄恻的话语至今还回响在耳边。但是使他在伤痛惨淡至极的心情中还对修史念念不忘的,却不光是父亲的遗言。比起其他一切,理由首先在于这项工作本身。不是工作的魅力或者对工作的热情那些令人舒畅的东西。不错,是对修史的使命感,但却并非是昂然的自矜。一向自信得出奇的这个男人,通过这次的事,从心底里知道了自己是多么微不足道。再怎么高谈理想,高谈抱负,自己也不过是路旁被牛踏扁的虫豸罢了。但是,“我” 虽然被可怜地踏扁了,修史这项事业本身的意义却无可怀疑。沦落成现在这副惨状,丧失掉所有自信和自恃之后,再苟延残喘在世上从事这项工作,无论如何不可能是舒畅的。他感到,那几乎已经成了两个生物之间再怎么厌恶也无法互相摆脱的宿命般的因缘。不管怎样,有一点是清楚的。为了这项工作,他无法放弃自己的生命。不是出于责任感,而是由于与这项工作之间更多肉体性的关联。
当座の盲目的な獣の呻き苦しみに代わって、より意識的な・人間の苦しみが始まった。困ったことに、自殺できないことが明らかになるにつれ、自殺によってのほかに苦悩と恥辱とから逃れる途のないことがますます明らかになってきた。一個の丈夫たる太史令司馬遷は天漢三年の春に死んだ。そして、そののちに、彼の書残した史をつづける者は、知覚も意識もない一つの書写機械にすぎぬ、――自らそう思い込む以外に途みちはなかった。無理でも、彼はそう思おうとした。修史の仕事は必ず続けられねばならぬ。これは彼にとって絶対であった。修史の仕事のつづけられるためには、いかにたえがたくとも生きながらえねばならぬ。生きながらえるためには、どうしても、完全に身を亡なきものと思い込む必要があったのである。
最初那种盲目的野兽般的痛苦消失后,更为清醒的人的痛苦开始了。困难的是,随着不能自杀这一点逐渐清晰,除了自杀之外没有另一条路可以逃离苦恼和耻辱这一点也逐渐清晰起来。伟丈夫太史令司马迁于天汉三年春死去了,在他身后,继续写着他未完的史书的是一个既无知觉也无意识的书写机器——他唯有强迫自己这样想。修史的工作必须继续下去,这是绝对的。为了修史的工作能够继续,不管多么不堪都必须活下去。而为了活下去,他必须一心相信自己的肉体已经消亡了。
五月ののち、司馬遷はふたたび筆を執った。歓びも昂奮もない・ただ仕事の完成への意志だけに鞭打たれて、傷ついた脚を引摺りながら目的地へ向かう旅人のように、とぼとぼと稿を継いでいく。もはや太史令の役は免ぜられていた。些か後悔した武帝が、しばらく後に彼を中書令に取立てたが、官職の黜陟のごときは、彼にとってもうなんの意味もない。以前の論客司馬遷は、一切口を開かずなった。笑うことも怒ることもない。しかし、けっして悄然たる姿ではなかった。むしろ、何か悪霊にでも取り憑かれているようなすさまじさを、人々は緘黙せる彼の風貌の中に見て取った。夜眠る時間をも惜しんで彼は仕事をつづけた。一刻も早く仕事を完成し、そのうえで早く自殺の自由を得たいとあせっているもののように、家人らには思われた。
五月之后,司马迁再度执笔。没有喜悦或兴奋,只有完成工作的意志在鞭打。如同拖着受伤的脚走向目的地的旅人一样,他一点点写着稿子。太史令的官职早已被罢免,有些后悔的武帝在稍后任命他作了中书令。但官职的升迁与否,对他已经没有任何意义。从前的论客司马迁,如今变得绝不开口。如同有什么恶鬼附身一样,人们从他缄默的风貌中甚至感到了一种凄厉。他废寝忘食地工作着。在家人眼里,那似乎是为了尽快完成工作,以便早一天获得自杀的自由似的。
凄惨な努力を一年ばかり続けたのち、ようやく、生きることの歓びを失いつくしたのちもなお表現することの歓びだけは生残りうるものだということを、彼は発見した。しかし、そのころになってもまだ、彼の完全な沈黙は破られなかったし、風貌の中のすさまじさも全然和らげられはしない。稿をつづけていくうちに、宦者とか閹奴とかいう文字を書かなければならぬところに来ると、彼は覚えず呻き声を発した。独り居室にいるときでも、夜、牀上に横になったときでも、ふとこの屈辱の思いが萌してくると、たちまちカーッと、焼鏝をあてられるような熱い疼くものが全身を駈けめぐる。彼は思わず飛上り、奇声を発し、呻きつつ四辺を歩きまわり、さてしばらくしてから歯をくいしばって己を落ちつけようと努めるのである。
凄惨的努力持续了大约一年之后,他终于发现,生的快乐彻底失去之后,唯有表现的快乐还可以残留下来。即便如此,他那彻底的沉默并没有打破,风貌中的凄厉也没有丝毫缓和。在写稿的时候,每当不得不写下宦者或者阉奴之类字眼时,他就会不由得发出呻吟。独自在居室中,或者夜晚躺在床上时,屈辱的感情时而在无意中萌发。如同被烧红的烙铁炙烤一样,一种炙热的疼痛片刻间传遍全身。这时他会大叫一声跳起,一面呻吟,一面快步徘徊,然后再咬紧牙关尽力使自己平静下来。
三
乱軍の中に気を失った李陵が獣脂を灯し獣糞を焚いた単于の帳房の中で目を覚ましたとき、咄嗟に彼は心を決めた。自ら首刎ねて辱しめを免れるか、それとも今一応は敵に従っておいてそのうちに機を見て脱走する――敗軍の責を償うに足る手柄を土産として――か、この二つのほかに途はないのだが、李陵は、後者を選ぶことに心を決めたのである。
在乱军中失去意识的李陵,当在单于以兽油作灯、焚兽粪取暖的大帐中醒来后,当即在内心做了决定。或者自刎以免受辱,或者暂时降敌再见机逃走——带着足以抵偿败军之责的功劳作献礼——除两者外没有第三条路;李陵在心里决定选择后者。
単于は手ずから李陵の縄を解いた。その後の待遇も鄭重を極めた。且鞮侯単于とて先代の呴犁湖単于の弟だが、骨骼の逞しい巨眼赭髯の中年の偉丈夫である。数代の単于に従って漢と戦ってはきたが、まだ李陵ほどの手強い敵に遭ったことはないと正直に語り、陵の祖父李広の名を引合いに出して陵の善戦を讃めた。虎を格殺したり岩に矢を立てたりした飛将軍李広の驍名は今もなお胡地にまで語り伝えられている。陵が厚遇を受けるのは、彼が強き者の子孫でありまた彼自身も強かったからである。食を頒けるときも強壮者が美味をとり老弱者に余り物を与えるのが匈奴のふうであった。ここでは、強き者が辱しめられることはけっしてない。降将李陵は一つの穹盧と数十人の侍者とを与えられ賓客の礼をもって遇せられた。
单于亲自为李陵松开了绑绳,随后的各项待遇也极尽郑重。且鞮侯单于是上一代呴犁湖单于的弟弟,是位骨骼魁梧、巨眼赭髯的中年伟丈夫。他坦率地说自己跟随几代单于与汉交战,还从未遇到过李陵这样的强敌,并提到了陵的祖父李广,以称赞陵的善战。空手格杀猛虎、飞箭射入岩石的飞将军李广的骁名至今还在胡地广为流传。李陵之所以受到厚遇,是因为他既是强者的子孙,自己也是强者。按匈奴的风气,就连分配食物时也是强壮者取走美味,老弱者得到剩余。在这里强者决不会受到凌辱。降将李陵得到了一顶穹庐和数十名侍者,并被待以宾客之礼。
李陵にとって奇異な生活が始まった。家は絨帳穹盧、食物は羶肉、飲物は酪漿と獣乳と乳醋酒にゅうさくしゅ。着物は狼や羊や熊の皮を綴り合わせた旃裘。牧畜と狩猟と寇掠と、このほかに彼らの生活はない。一望際涯のない高原にも、しかし、河や湖や山々による境界があって、単于直轄地のほかは左賢王右賢王左谷蠡王右谷蠡王以下の諸王侯の領地に分けられており、牧民の移住はおのおのその境界の中に限られているのである。城郭もなければ田畑もない国。村落はあっても、それが季節に従い水草を逐おって土地を変える。
对于李陵,奇异的生活开始了。住的是绒帐穹庐,吃的是牛羊腥羶,喝的是酪浆、兽乳和乳醋酒,服装则是用狼、羊、熊等兽皮合缀而成的裘衣。畜牧、狩猎、寇掠,除此之外他们没有别的生活。在这一望无涯的高原上,也有依河湖山岭划定的边界。除单于直辖领地之外的土地被分成左贤王、右贤王、左谷蠡王、右谷蠡王等诸位王侯的领地,牧民们的移动只限于各自的边界之中。这是既无城郭也无田壤的国家。虽然有村落,但那也随着季节变化逐水草而变换土地。
李陵には土地は与えられない。単于麾下の諸将とともにいつも単于に従っていた。隙があったら単于の首でも、と李陵は狙っていたが、容易に機会が来ない。たとい、単于を討果たしたとしても、その首を持って脱出することは、非常な機会に恵まれないかぎり、まず不可能であった。胡地にあって単于と刺違えたのでは、匈奴は己の不名誉を有耶無耶のうちに葬ってしまうこと必定ゆえ、おそらく漢に聞こえることはあるまい。李陵は辛抱強、その不可能とも思われる機会の到来を待った。
李陵没有分到土地,而是和单于麾下诸将一起跟随着单于。他一直想伺机拿下单于首级,但机会迟迟不来。即使刺杀单于成功,但要想带着其首级逃出胡地,除非有天赐良机,否则是不可能的。如果只是在胡地与单于火拼,匈奴一定会看成己方的耻辱而百般遮掩,消息也许压根传不到汉朝。李陵耐心地等待着那几乎是不可能的机会的到来。
単于の幕下には、李陵のほかにも漢の降人が幾人かいた。その中の一人、衛律という男は軍人ではなかったが、丁霊王の位を貰って最も重く単于に用いられている。その父は胡人だが、故あって衛律は漢の都で生まれ成長した。武帝に仕えていたのだが、先年協律都尉李延年の事に坐するのを懼れて、亡げて匈奴に帰したのである。血が血だけに胡風になじむことも速く、相当の才物でもあり、常に且鞮侯単于の帷幄に参じてすべての画策に与かっていた。李陵はこの衛律を始め、漢人の降って匈奴の中にあるものと、ほとんど口をきかなかった。彼の頭の中にある計画について事をともにすべき人物がいないと思われたのである。そういえば、他の漢人同士の間でもまた、互いに妙に気まずいものを感じるらしく、相互に親しく交わることがないようであった。
在单于帐下,除李陵外还有几名投降的汉人。其中有个叫卫律的,虽然不是武将,但位封丁灵王,最受单于重用。卫律的父亲是胡人,他本人在汉都出生长大。原先曾效力于武帝,几年前协律都尉李延年事发时因害怕受株连,逃亡到了胡地。毕竟血浓于水,他很快就融入胡风,并显示出相当的才练,经常出入且鞮侯单于的帷幄之中,参与各项谋划。李陵对卫律以及其他投降匈奴的汉人几乎从不开口。他认为其中没有可以和他共商胸中大计的人。这么说来,其他的汉人似乎也都彼此感到一种莫名的困窘,看不出什么亲密来往的迹象。
一度単于は李陵を呼んで軍略上の示教を乞うたことがある。それは東胡に対しての戦いだったので、陵は快く己が意見を述べた。次に単于が同じような相談を持ちかけたとき、それは漢軍に対する策戦についてであった。李陵はハッキリと嫌な表情をしたまま口を開こうとしなかった。単于も強いて返答を求めようとしなかった。それからだいぶ久しくたったころ、代・上郡を寇掠する軍隊の一将として南行することを求められた。このときは、漢に対する戦いには出られない旨を言ってキッパリ断わった。爾後、単于は陵にふたたびこうした要求をしなくなった。待遇は依然として変わらない。他に利用する目的はなく、ただ士を遇するために士を遇しているのだとしか思われない。とにかくこの単于は男だと李陵は感じた。
某次,单于找来李陵,请教军略上的问题。因为是对东胡作战,李陵痛快地陈述了己见。第二次单于又拿类似问题请教时,是针对汉军的作战计划。李陵明显露出不快的表情,连口都不愿张开。单于也没有强要他作答。又过了很久之后,单于请李陵为将率领劫掠代郡、上郡的部队南行,这次李陵明确表示自己决不会与汉朝作战,一口回绝掉了。自那以后,单于再未向李陵提出过类似要求。待遇则依然未变。没有为我所用的目的,只是单纯地礼贤下士。李陵感到这位单于称得上是个大丈夫。
単于の長子・左賢王が妙に李陵に好意を示しはじめた。好意というより尊敬といったほうが近い。二十歳を越したばかりの・粗野ではあるが勇気のある真面目な青年である。強き者への讃美が、実に純粋で強烈なのだ。初め李陵のところへ来て騎射を教えてくれという。騎射といっても騎のほうは陵に劣らぬほど巧い。ことに、裸馬を駆る技術に至っては遙かに陵を凌いでいるので、李陵はただ射だけを教えることにした。左賢王は、熱心な弟子となった。陵の祖父李広の射における入神の技などを語るとき、蕃族の青年は眸をかがやかせて熱心に聞入るのである。よく二人して狩猟に出かけた。ほんの僅わずかの供廻りを連れただけで二人は縦横に曠野を疾駆しては狐や狼や羚羊や鵰や雉子などを射た。
单于的长子左贤王不知为何开始对李陵表示好感,或者不如说是尊敬。这是个二十刚刚出头,粗野中洋溢着勇气的认真的青年,对强者的赞美纯粹而强烈。他找到李陵,要求传授自己骑射。但说是骑射,事实上他骑马的技巧毫不逊于李陵,特别是骑裸马的技术甚至还高出一筹。李陵决定只教他箭法。左贤王成了热心的弟子。当陵谈起祖父李广出神入化的箭法时,蕃族的青年睁大眼睛听得入了神。两人经常一同出去狩猎,只带几名随从,在旷野上纵横驰驱,射杀着狐狸、豺狼、羚羊、鹰鹫和雉鸡。
あるときなど夕暮れ近くなって矢も尽きかけた二人が――二人の馬は供の者を遙かに駈抜いていたので――一群の狼に囲まれたことがある。馬に鞭うち全速力で狼群の中を駈け抜けて逃れたが、そのとき、李陵の馬の尻に飛びかかった一匹を、後ろに駈けていた青年左賢王が彎刀をもって見事に胴斬りにした。あとで調べると二人の馬は狼どもに噛み裂かれて血だらけになっていた。そういう一日ののち、夜、天幕の中で今日の獲物を羹25の中にぶちこんでフウフウ吹きながら啜るとき、李陵は火影に顔を火照らせた若い蕃王の息子に、ふと友情のようなものをさえ感じることがあった。
一天黄昏,箭已射完的两人被狼群包围了起来——随从都远远地落在后面。在鞭打着坐骑全速冲出狼群包围时,一匹狼跳上了李陵的马臀,被紧跟其后的左贤王用弯刀利落地砍成了两段。事后看时,两人坐骑的马腿都被狼群咬得血肉模糊了。这天晚上,坐在帐篷里把猎物丢进热汤呼呼地边吹边吃时,李陵从被火苗映红面庞的蕃王的年青儿子身上,竟不由感到了一股友情。
天漢三年の秋に匈奴がまたもや雁門を犯した。これに酬いるとて、翌四年、漢は弐師将軍李広利に騎六万歩七万の大軍を授けて朔方を出でしめ、歩卒一万を率いた強弩都尉路博徳にこれを援けしめた。ひいて因杅将軍公孫敖は騎一万歩三万をもって雁門を、游撃将軍韓説は歩三万をもって五原を、それぞれ進発する。近来にない大北伐である。
天汉三年秋,匈奴再犯雁门。为了还以颜色,翌年,汉朝授以贰师将军李广利六万骑兵和七万步兵的大军出朔方,派强弩都尉路博德率领一万步卒支援。与此同时,因杅将军公孙敖率一万骑兵三万步兵出雁门,游击将军韩说率三万步兵出五原,各自分头进发。这是近年来所未有的大北伐。
単于はこの報に接するや、ただちに婦女、老幼、畜群、資財の類をことごとく余吾水26(ケルレン河)北方の地に移し、自ら十万の精騎を率いて李広利・路博徳の軍を水南の大草原に邀え撃った。連戦十余日。漢軍はついに退くのやむなきに至った。李陵に師事する若き左賢王は、別に一隊を率いて東方に向かい因杅将軍を迎えてさんざんにこれを破った。漢軍の左翼たる韓説の軍もまた得るところなくして兵を引いた。北征は完全な失敗である。
单于接报后,立刻将妇女老幼、畜群资财等全部转移到余吾水以北,自己亲率十万精兵,在余吾水以南的大草原迎击李广利、路博德的大军。连战十余日后,汉军终于被迫撤退。李陵的年轻弟子左贤王另率一队,在东面迎击因杅将军,并将其击溃。担任汉军左翼的韩说的部队也一无所获地收了兵。北征以彻底失败告终。
李陵は例によって漢との戦いには陣頭に現われず、水北に退いていたが、左賢王の戦績をひそかに気遣っている己を発見して愕然とした。もちろん、全体としては漢軍の成功と匈奴の敗戦とを望んでいたには違いないが、どうやら左賢王だけは何か負けさせたくないと感じていたらしい。李陵はこれに気がついて激しく己を責めた。
李陵像以往一样,在对汉交战时不愿现身阵前,退到了水北。但他惊愕地发现,自己竟然在暗中挂念左贤王的战绩。当然在整体上,他盼望着汉军的成功和匈奴的战败,但似乎唯独有些不希望左贤王战败似的。发现这一点后,李陵激烈地谴责了自己。
その左賢王に打破られた公孫敖が都に帰り、士卒を多く失って功がなかったとの廉27で牢に繋つながれたとき、妙な弁解をした。敵の捕虜が、匈奴軍の強いのは、漢から降った李将軍が常々兵を練り軍略を授けてもって漢軍に備えさせているからだと言ったというのである。だからといって自軍が敗けたことの弁解にはならないから、もちろん、因杅将軍の罪は許されなかったが、これを聞いた武帝が、李陵に対し激怒したことは言うまでもない。一度許されて家に戻っていた陵の一族はふたたび獄に収められ、今度は、陵の老母から妻・子・弟に至るまでことごとく殺された。軽薄なる世人の常とて、当時隴西(李陵の家は隴西の出である)の士大夫ら皆李家を出したことを恥としたと記されている。
为左贤王所败的公孙敖回到京城后,由于损兵折将、寸功未立而被下狱时,做了奇怪的辩解。他声称,根据敌军俘虏的供词,匈奴军之所以强大是由于汉朝降将李将军经常练兵布阵、传授军略以备汉军的结果。当然这也不能成为败兵的理由,所以因杅将军的罪名并未豁免,但武帝听了这些话后对李陵大为震怒。一度被赦免的李陵一族再次下狱,这一次从李陵的老母到妻子、孩子、兄弟统统被杀掉了。冷暖炎凉是世人常态,据记载,当时陇西(李陵家原籍在陇西)士大夫都深以出了李家为耻。
この知らせが李陵の耳に入ったのは半年ほど後のこと、辺境から拉致された一漢卒の口からである。それを聞いたとき、李陵は立上がってその男の胸倉をつかみ、荒々しくゆすぶりながら、事の真偽を今一度たしかめた。たしかにまちがいのないことを知ると、彼は歯をくい縛り、思わず力を両手にこめた。男は身をもがいて、苦悶の呻きを洩らした。陵の手が無意識のうちにその男の咽喉を扼していたのである。陵が手を離すと、男はバッタリ地に倒れた。その姿に目もやらず、陵は帳房の外へ飛出した。
这消息传到李陵耳朵里,是在大约半年之后,得自一名边境上被绑架过来的汉卒。当听说这些时,李陵跳起来一把抓住那人胸口,一面猛烈地摇晃着他,一面确认事情的真伪。当知道确实无疑时,他不由得咬紧牙关,攥紧了双手。那人拼命挣扎着,发出了痛苦的呻吟。原来李陵的双手在无意识中紧紧扼住了他的咽喉。李陵松开手,那人啪嗒一下倒在了地上。看也没看上一眼,李陵就冲出了营帐。
めちゃくちゃに彼は野を歩いた。激しい憤りが頭の中で渦を巻いた。老母や幼児のことを考えると心は灼けるようであったが、涙は一滴も出ない。あまりに強い怒りは涙を涸渇させてしまうのであろう。
他在野外不顾一切地走着,激烈的愤怒在脑海中卷起狂涛。想起老母和幼儿,他内心如同被灼烧一般,可是一滴眼泪也流不出来,过于强烈的愤怒把眼泪都烤干了。
今度の場合には限らぬ。今まで我が一家はそもそも漢から、どのような扱いを受けてきたか? 彼は祖父の李広の最期を思った。(陵の父、当戸は、彼が生まれる数か月前に死んだ。陵はいわゆる、遺腹の児である。だから、少年時代までの彼を教育し鍛えあげたのは、有名なこの祖父であった。)名将李広は数次の北征に大功を樹てながら、君側の姦佞に妨げられて何一つ恩賞にあずからなかった。部下の諸将がつぎつぎに爵位封侯を得て行くのに、廉潔な将軍だけは封侯はおろか、終始変わらぬ清貧に甘んじなければならなかった。最後に彼は大将軍衛青と衝突した。さすがに衛青にはこの老将をいたわる気持はあったのだが、その幕下の一軍吏が虎の威を借りて李広を辱しめた。憤激した老名将はすぐその場で――陣営の中で自ら首刎ねたのである。祖父の死を聞いて声をあげてないた少年の日の自分を、陵はいまだにハッキリと憶えている。……
不只是这一次了。至今为止我们一家都从汉朝受到了哪些对待?他想起了祖父李广的死。李陵是遗腹子,父亲当户在他出生前几个月就去世了。一直到少年时代,都是这位有名的祖父在培养教育他。名将李广虽然数次在北伐中立下大功,但由于君侧的奸佞作梗,始终没有受到任何封赏。手下的将领们封侯封爵,可唯独廉洁的老将军不要说封侯,甚至始终不得不甘于清贫。最后他和大将军卫青发生了冲突。卫青本人倒是有体恤这员老将的心意,可其帐下一员军吏狐假虎威地羞辱了李广。愤慨的老将军当场就在阵营中自刎了。李陵现在还清楚地记得,听到祖父死讯放声痛哭的少年时的自己……
陵の叔父(李広の次男)李敢の最後はどうか。彼は父将軍の惨めな死について衛青を怨み、自ら大将軍の邸に赴いてこれを辱しめた。大将軍の甥にあたる嫖騎将軍霍去病がそれを憤って、甘泉宮28の猟のときに李敢を射殺した。武帝はそれを知りながら、嫖騎将軍をかばわんがために、李敢は鹿の角に触れて死んだと発表させたのだ。……。
李陵的叔父(李广的次子)李敢的结局又怎样呢?他为报父亲惨死之仇,跑到大将军府羞辱了卫青一番。大将军的外甥骠骑将军霍去病代抱不平,在甘泉宫狩猎时故意将李敢射杀。武帝明知实情,但为了庇护骠骑将军,对外只说李敢是被鹿角顶死的……
司馬遷の場合と違って、李陵のほうは簡単であった。憤怒がすべてであった。(無理でも、もう少し早くかねての計画――単于の首でも持って胡地を脱するという――を実行すればよかったという悔いを除いては、)ただそれをいかにして現わすかが問題であるにすぎない。彼は先刻の男の言葉「胡地こちにあって李将軍が兵を教え漢に備えていると聞いて陛下が激怒され云々うんぬん」を思出した。ようやく思い当たったのである。もちろん彼自身にはそんな覚えはないが、同じ漢の降将に李緒という者がある。元、塞外都尉として奚侯城を守っていた男だが、これが匈奴に降ってから常に胡軍に軍略を授け兵を練っている。現に半年前の軍にも、単于に従って、(問題の公孫敖の軍とではないが)漢軍と戦っている。これだと李陵は思った。同じ李将軍で、李緒とまちがえられたに違いないのである。
与司马迁不同,事情对李陵更简单一些——愤怒就是全部了。(除了对未能早一点实行自己的计划——带着单于首级逃离胡地——的悔恨之外。)问题只在于如何把这愤怒表达出来。他想起了刚才那人 “听说李将军在胡地练兵以备汉军,陛下大怒” 的话。好容易他才想起是怎么回事。虽然他自己从没有做过那种事,但同是汉军降将中,有一个名叫李绪的,当初作为塞外都尉镇守奚侯城,投降匈奴后经常向胡军传授军略、协助练兵。就在半年前的战事中,他还跟随单于和汉军(但并非公孙敖的军队)交过战。是了,李陵心想,两人都叫李将军,一定是把李绪当作自己了。
その晩、彼は単身、李緒の帳幕へと赴いた。一言も言わぬ、一言も言わせぬ。ただの一刺しで李緒は斃れた。
当晚他单身来到李绪的帐营。一句话也没有说,一句话也不让说,手起剑落将李绪刺死了。
翌朝李陵は単于の前に出て事情を打明けた。心配は要らぬと単于は言う。だが母の大閼氏が少々うるさいから――というのは、相当の老齢でありながら、単于の母は李緒と醜関係があったらしい。単于はそれを承知していたのである。匈奴の風習によれば、父が死ぬと、長子たる者が、亡父の妻妾のすべてをそのまま引きついで己が妻妾とするのだが、さすがに生母だけはこの中にはいらない。生みの母に対する尊敬だけは極端に男尊女卑の彼らでも有っているのである――今しばらく北方へ隠れていてもらいたい、ほとぼりがさめたころに迎えを遣るから、とつけ加えた。その言葉に従って、李陵は一時従者どもをつれ、西北の兜銜山(額林達班嶺)の麓に身を避けた。
第二天,李陵来到单于面前讲明了一切。单于告诉他不用担心,只是母亲大閼氏那里也许会有些麻烦——单于的母亲虽然已届老龄,但和李绪之间似乎有些丑闻。对此单于也有所听说。按照匈奴风俗,父亲死后长子可以把亡父的妻妾全部收为己有,但唯独生母不在此列。即使是极度男尊女卑的他们,对亲生母亲也还是有着尊敬——因此请到北方暂避一时,等事情平息后自会派人迎接。听了单于的话,李陵带着随从,暂时避到了西北兜銜山(额林达班领)的山麓一带。
まもなく問題の大閼氏が病死し、単于の庭に呼戻されたとき、李陵は人間が変わったように見えた。というのは、今まで漢に対する軍略にだけは絶対に与らなかった彼が、自ら進んでその相談に乗ろうと言出したからである。単于はこの変化を見て大いに喜んだ。彼は陵を右校王に任じ、己が娘の一人をめあわせた。娘を妻にという話は以前にもあったのだが、今まで断わりつづけてきた。それを今度は躊躇なく妻としたのである。
不久大閼氏病死,李陵重新被召回单于帐下时,看起来就像变了个人。从前他坚决不肯参与针对汉朝的军略,可如今却主动提出愿出谋划策。单于看到这一变化大喜,封李陵为右校王,并把自己的一个女儿嫁给了他。许配女儿这件事以前就曾提过,但李陵一直没有同意,而这次毫不犹豫就迎娶了回来。
ちょうど酒泉張掖の辺を寇掠すべく南に出て行く一軍があり、陵は自ら請うてその軍に従った。しかし、西南へと取った進路がたまたま浚稽山の麓ふもとを過ったとき、さすがに陵の心は曇った。かつてこの地で己に従って死戦した部下どものことを考え、彼らの骨が埋められ彼らの血の染み込んだその砂の上を歩きながら、今の己が身の上を思うと、彼はもはや南行して漢兵と闘う勇気を失った。病と称して彼は独り北方へ馬を返した。
刚好这时有一支部队要南下酒泉、张掖边境劫掠,李陵主动请命加入了这支队伍。但是,当朝着西南方向的行军偶然经过浚稽山麓时,李陵心头罩上了一层浓重的阴影。想到当年在这里跟随自己死战的部下,走在埋有他们的白骨、染有他们的鲜血的沙地上,再想到如今的自己,他早已失去了南下与汉兵作战的勇气。佯称有病,他单骑回到了北方。
翌、太始たいし元年、且鞮侯単于が死んで、陵と親しかった左賢王が後を嗣いだ。狐鹿姑単于というのがこれである。
太始元年,且鞮侯单于去世,和李陵交好的左贤王继位,这就是狐鹿姑单于。
匈奴の右校王たる李陵の心はいまだにハッキリしない。母妻子を族滅された怨みは骨髄に徹しているものの、自ら兵を率いて漢と戦うことができないのは、先ごろの経験で明らかである。ふたたび漢の地を踏むまいとは誓ったが、この匈奴の俗に化して終生安んじていられるかどうかは、新単于への友情をもってしても、まださすがに自信がない。
匈奴右校王李陵的内心至今还是无法释然。母亲妻儿全族被戮的怨仇虽然痛彻骨髓,但上次的经验告诉他,自己还是无法领军与汉朝作战。他已经发誓再不踏上汉土半步,但究竟能否归化匈奴,终生在此安居,即使有新单于的友情也还是没有自信。
考えることの嫌きらいな彼は、イライラしてくると、いつも独り駿馬を駆って曠野に飛び出す。秋天一碧の下、嘎々と蹄の音を響かせて草原となく丘陵となく狂気のように馬を駆けさせる。何十里かぶっとばした後、馬も人もようやく疲れてくると、高原の中の小川を求めてその滸に下り、馬に飲かう。それから己は草の上に仰向けにねころんで快い疲労感にウットリと見上げる碧落の潔さ、高さ、広さ。ああ我もと天地間の一粒子のみ、なんぞまた漢と胡とあらんやとふとそんな気のすることもある。一しきり休むとまた馬に跨がり、がむしゃらに駈け出す。終日乗り疲れ黄雲が落暉に曛ずるころになってようやく彼は幕営に戻る。疲労だけが彼のただ一つの救いなのである。
生性不喜思考的他每当焦躁起来时,总是独自跨上骏马,到旷野驰骋。秋空一碧之下,蹄声嘎嘎,不分草原、丘陵,只管象发狂似的纵马狂奔。一口气骑了几十里地,人和马都疲倦起来时,找到一条高原中的小河,下到河畔饮马。然后自己向草地上一躺,在舒适的疲劳感中出神地眺望洁净、高远和广阔的碧落。“啊,我原不过天地间一颗微粒,又何必管什么胡汉呢?” 休息一会儿后,他重新跨上马背,又不顾一切地狂奔起来。这样骑马一整天,筋疲力尽之后,待到云彩被余晖曛黄时才回转帐营。只有疲劳是他唯一的救星。
司馬遷が陵のために弁じて罪をえたことを伝える者があった。李陵は別にありがたいとも気の毒だとも思わなかった。司馬遷とは互いに顔は知っているし挨拶をしたことはあっても、特に交を結んだというほどの間柄ではなかった。むしろ、厭に議論ばかりしてうるさいやつだくらいにしか感じていなかったのである。それに現在の李陵は、他人の不幸を実感するには、あまりに自分一個の苦しみと闘うのに懸命であった。よけいな世話とまでは感じなかったにしても、特に済まないと感じることがなかったのは事実である。
司马迁为李陵辩护而获罪的消息也传到了这里。李陵并没有觉得特别感谢或惋惜。和司马迁之间虽说有点头之交,并没有结下什么特别的交谊。甚至不如说,只记得那是一个整天尽知道辩论的聒噪家伙而已。另外,对现在的李陵来说,光是和自己的痛苦搏斗就已经用尽了全身力气,再没有余力去体会他人的痛苦了。即使没感到司马迁多此一举,至少没怎么内疚是真的。
初め一概に野卑滑稽としか映らなかった胡地の風俗が、しかし、その地の実際の風土・気候等を背景として考えてみるとけっして野卑でも不合理でもないことが、しだいに李陵にのみこめてきた。厚い皮革製の胡服でなければ朔北の冬は凌ないし、肉食でなければ胡地の寒冷に堪えるだけの精力を貯えることができない。固定した家屋を築かないのも彼らの生活形態から来た必然で、頭から低級と貶し去るのは当たらない。漢人のふうをあくまで保とうとするなら、胡地の自然の中での生活は一日といえども続けられないのである。
当初只觉得野蛮滑稽的胡地风俗,如果放在这片土地实际的风土气候下考虑的话,则既非野蛮也非不合理,这一点李陵渐渐地明白了。不是粗厚皮革做成的胡服就无法抵御朔北的严冬,不是肉食就无法积累足以抵抗寒冷的体力。不盖固定房屋也是由他们的生活方式产生的必然结果,不能上来就贬斥为野蛮。如果一定要保持汉人风俗的话,在胡地的大自然中连一天也活不下去。
かつて先代の且鞮侯単于の言った言葉を李陵は憶おぼえている。漢の人間が二言めには、己が国を礼儀の国といい、匈奴の行ないをもって禽獣に近いと看做すことを難じて、単于は言った。漢人のいう礼儀とは何ぞ? 醜いことを表面だけ美しく飾り立てる虚飾の謂ではないか。利を好み人を嫉むこと、漢人と胡人といずれかはなはだしき? 色に耽り財を貪ること、またいずれかはなはだしき? 表べを剥ぎ去れば畢竟なんらの違いはないはず。ただ漢人はこれをごまかし飾ることを知り、我々はそれを知らぬだけだ、と。漢初以来の骨肉相喰む内乱や功臣連の排斥擠陥の跡を例に引いてこう言われたとき、李陵はほとんど返す言葉に窮した。
李陵记得上一代的且鞮侯单于说过这样的话。“汉人一开口就说自己国家是礼仪之邦,把匈奴的行事看得如同禽兽。可汉人所谓的礼仪到底是什么?难道不是虚饰的代名词吗?把丑陋的东西只在表面上装饰得漂漂亮亮的。见利忘义,嫉妒中伤,这方面到底汉人与胡人哪个更甚?贪财好色,又是哪个更甚?剥去表面后其实都一样。只不过汉人知道伪装掩饰,我们不知道罢了。” 单于列举汉初以来各种骨肉相残、诛杀功臣的事例说出的这番话,令李陵当时几乎无言以对。
実際、武人たる彼は今までにも、煩瑣な礼のための礼に対して疑問を感じたことが一再ならずあったからである。たしかに、胡俗の粗野な正直さのほうが、美名の影に隠れた漢人の陰険さより遙かに好ましい場合がしばしばあると思った。諸夏の俗を正しきもの、胡俗を卑しきものと頭から決めてかかるのは、あまりにも漢人的な偏見ではないかと、しだいに李陵にはそんな気がしてくる。たとえば今まで人間には名のほかに字がなければならぬものと、ゆえもなく信じ切っていたが、考えてみれば字が絶対に必要だという理由はどこにもないのであった。
事实上,身为武人的他,以前也不止一次对为礼而礼的繁琐礼教感到过疑问。的确,粗野正直的胡地风俗在很多时候比起藏在美名之下的汉人的阴险要好得多。李陵渐渐觉得,上来就断定华夏的风俗高尚,批评胡地的风俗卑下,其实不过是汉人独有的偏见。比如说自己以前相信人除了名还必须有字,可仔细想想的话,从哪里也找不出必须有字的理由。
彼の妻はすこぶる大人しい女だった。いまだに主人の前に出るとおずおずしてろくに口も利きけない。しかし、彼らの間にできた男の児は、少しも父親を恐れないで、ヨチヨチと李陵の膝に匍上がって来る。その児の顔に見入りながら、数年前長安に残してきた――そして結局母や祖母とともに殺されてしまった――子供の俤をふと思いうかべて李陵は我しらず憮然とするのであった。
他的妻子是个非常老实的女子,直到现在,在丈夫面前还是畏畏缩缩,很少说话。可是他们之间生下的儿子却一点也不害怕父亲,动不动就爬到李陵膝盖上来。注视着这孩子的脸庞,李陵眼前会忽然浮现出几年前留在长安——结果和母亲、祖母一同被杀——的孩子的面容,而黯然神伤。
陵が匈奴に降るよりも早く、ちょうどその一年前から、漢の中郎将蘇武が胡地に引留められていた。
在李陵投降匈奴大约一年之前,汉朝中郎将苏武被扣留在了胡地。
元来蘇武は平和の使節として捕虜交換のために遣わされたのである。ところが、その副使某がたまたま匈奴の内紛に関係したために、使節団全員が囚えられることになってしまった。単于は彼らを殺そうとはしないで、死をもって脅かしてこれを降らしめた。ただ蘇武一人は降服を肯んじないばかりか、辱しめを避けようと自ら剣を取って己が胸を貫いた。
苏武原本是作为和平时期的使节出使匈奴、互换俘虏的,但由于某个副使卷入了匈奴的内乱,致使使节团全员遭到囚禁。单于无意杀害他们,就以死胁迫他们投降。唯独苏武一人,不但不肯投降,还为避免受辱用剑刺透了胸膛。
昏倒した蘇武に対する胡毉の手当てというのがすこぶる変わっていた。地を掘って坎をつくり熅火を入れて、その上に傷者を寝かせその背中を蹈んで血を出させたと漢書には誌されている。この荒療治のおかげで、不幸にも蘇武は半日昏絶したのちにまた息を吹返した。且鞮侯単于はすっかり彼に惚れ込んだ。数旬ののちようやく蘇武の身体が恢復すると、例の近臣衛律をやってまた熱心に降をすすめさせた。衛律は蘇武が鉄火の罵詈に遭あい、すっかり恥をかいて手を引いた。
对昏迷中的苏武,胡医采取了颇为古怪的疗法。据《汉书》记载,他们在地上挖了个坑,里面埋进炭火,然后把伤者平放在上面,通过踩他的后背让淤血流出。靠着这种野蛮疗法,苏武不幸在昏迷半天后又醒了过来。且鞮侯单于对他着了迷,几周后苏武的身体刚一恢复,就派那位近臣卫律前去热心地劝降。卫律遭到苏武铁和火一般的痛骂,含羞忍辱地作罢了。
その後蘇武が窖の中に幽閉されたとき旃毛を雪に和して喰いもって飢えを凌いだ話や、ついに北海(バイカル湖)のほとり人なき所に徙されて牡羊が乳を出さば帰るを許さんと言われた話は、持節十九年の彼の名とともに、あまりにも有名だから、ここには述べない。とにかく、李陵が悶々の余生を胡地に埋めようとようやく決心せざるを得なくなったころ、蘇武は、すでに久しく北海のほとりで独り羊を牧していたのである。
在那之后,苏武被幽闭在地窖里,只能用毛皮合雪充饥;然后又被迁到北海无人之地,被告知等到公羊出奶才可归还的故事,和持节十九年的佳话一起,早已经家喻户晓,在此就不重复了。总之,在李陵逐渐决心把闷闷余生埋葬在胡地时,苏武已经独自在北海(贝加尔湖)边上牧羊许久了。
李陵にとって蘇武は二十年来の友であった。かつて時を同じゅうして29侍中を勤めていたこともある。片意地でさばけないところはあるにせよ、確かにまれに見る硬骨の士であることは疑いないと陵は思っていた。天漢元年に蘇武が北へ立ってからまもなく、武の老母が病死したときも、陵は陽陵までその葬を送った。蘇武の妻が良人のふたたび帰る見込みなしと知って、去って他家に嫁した噂を聞いたのは、陵の北征出発直前のことであった。そのとき、陵は友のためにその妻の浮薄をいたく憤った。
苏武是李陵相交二十余年的好友,以前还曾经一同担任过侍中。在李陵眼里,苏武虽然有些顽固和不开通,但却是条难得一见的硬汉。天汉元年苏武北上不久后,他的老母病死,当时李陵一直送葬到阳陵。在李陵北征出发前,苏武的妻子看到良人回归无望改嫁了他人,当时李陵还为了朋友在心里痛责过他妻子的轻薄。
しかし、はからずも自分が匈奴に降るようになってからのちは、もはや蘇武に会いたいとは思わなかった。武が遙か北方に遷されていて顔を合わせずに済むことをむしろ助かったと感じていた。ことに、己の家族が戮せられてふたたび漢に戻る気持を失ってからは、いっそうこの「漢節を持した牧羊者」との面接を避けたかった。
但是,万没料到自己竟会投降匈奴,这时他已经不再想同苏武见面了。他甚至感到苏武被迁徙到遥远的北方,使两人不必碰面是一种幸运。特别是当全族被戮,自己已经彻底失去再回汉朝的想法后,就更想避开这位 “手执汉节的牧羊人”了。
狐鹿姑単于が父の後を嗣いでから数年後、一時蘇武が生死不明との噂が伝わった。父単于がついに降服させることのできなかったこの不屈の漢使の存在を思出した狐鹿姑単于は、蘇武の安否を確かめるとともに、もし健在ならば今一度降服を勧告するよう、李陵に頼んだ。陵が武の友人であることを聞いていたのである。やむを得ず陵は北へ向かった。
狐鹿姑单于继承父位几年后,忽然传出了苏武生死不明的流言。狐鹿姑单于想起父亲最终也未能使之降服的这位汉使,便命李陵前往确认苏武的生死,如果人还健在的话,就再一次劝其投降。对李陵是苏武友人这一点,单于似乎也有所耳闻。李陵无奈,只得北行。
姑且水30を北に溯り郅居水との合流点からさらに西北に森林地帯を突切る。まだ所々に雪の残っている川岸を進むこと数日、ようやく北海の碧い水が森と野との向こうに見え出したころ、この地方の住民なる丁霊族の案内人は李陵の一行を一軒の哀れな丸太小舎へと導いた。
一路沿姑且水北上,来到和郅居水合流的地方后,再向西北穿越森林地带。在留有残雪的河岸上行走数日,当终于从森林和原野的尽头望见北海碧绿的水波时,当地居民丁零族的向导把李陵一行带到了一间可怜巴巴的小木屋前面。
小舎の住人が珍しい人声に驚かされて、弓矢を手に表へ出て来た、頭から毛皮を被った鬚ぼうぼうの熊のような山男の顔の中に、李陵がかつての移中厩監31蘇子卿の俤を見出してからも、先方がこの胡服の大官を前さきの騎都尉李少卿と認めるまでにはなおしばらくの時間が必要であった。蘇武のほうでは陵が匈奴に事えていることも全然聞いていなかったのである。
小屋里的人被久违的人声惊动,手拿弓弩走了出来。从这个全身披着毛皮、须发丛生、象熊一样的山男脸上,李陵好容易才找到当年的栘中廐监苏子卿的面影,而在那之后,对方还花了些时间,才认出眼前这位胡服大员就是从前的骑都尉李少卿。苏武完全没有听说李陵投降匈奴的事。
感動が、陵の内に在って今まで武との会見を避けさせていたものを一瞬圧倒し去った。二人とも初めほとんどものが言えなかった。
感动在霎那间压倒了李陵心中一直令他躲避和苏武见面的东西。两人最初都几乎说不出话来。
陵の供廻りどもの穹廬がいくつか、あたりに組立てられ、無人の境が急に賑やかになった。用意してきた酒食がさっそく小舎に運び入れられ、夜は珍しい歓笑の声が森の鳥獣を驚かせた。滞在は数日に亙った。
李陵的随从在附近搭起几顶帐篷,无人之境顿时热闹起来。事先备好的酒食马上被运进小屋,到了夜里,罕见的欢笑声惊动了森林里的鸟兽。滞留达几天之久。
己が胡服を纏うに至った事情を話すことは、さすがに辛かった。しかし、李陵は少しも弁解の調子を交えずに事実だけを語った。蘇武がさりげなく語るその数年間の生活はまったく惨憺たるものであったらしい。何年か以前に匈奴の於靬王が猟をするとてたまたまここを過ぎ蘇武に同情して、三年間つづけて衣服食糧等を給してくれたが、その於靬王の死後は、凍いてついた大地から野鼠を掘出して、飢えを凌がなければならない始末だと言う。彼の生死不明の噂は彼の養っていた畜群が剽盗どものために一匹残らずさらわれてしまったことの訛伝らしい。陵は蘇武の母の死んだことだけは告げたが、妻が子を棄てて他家へ行ったことはさすがに言えなかった。
讲述自己穿上胡服的经过是痛苦的。李陵用不带任何辩解的语调,只把事实叙述了一遍。苏武若无其事叙说的他自己这些年的生活则听起来惨淡至极。几年前匈奴的於靬王狩猎时偶然经过此地,由于同情苏武,曾连续三年供给他衣服食物。但於靬王死后,他就不得不从冻硬的大地里挖出野鼠充饥了。有关他生死不明的谣言,大概是对他牧养的畜群被群盗一匹不剩全部抢走一事的讹传。李陵告诉了苏武他的老母去世的消息,但他的妻子抛下孩子改嫁的事终于没能说出口。
この男は何を目あてに生きているのかと李陵は怪しんだ。いまだに漢に帰れる日を待ち望んでいるのだろうか。蘇武の口うらから察すれば、いまさらそんな期待は少しももっていないようである。それではなんのためにこうした惨憺たる日々をたえ忍んでいるのか? 単于に降服を申出れば重く用いられることは請合いだが、それをする蘇武でないことは初めから分り切っている。陵の怪しむのは、なぜ早く自みずから生命を絶たないのかという意味であった。
李陵不禁奇怪,这个人到底是靠什么指望在活着。难道现在还指望能回到汉朝吗?从苏武的话里来看,事到如今,他对此已经完全不抱希望了。那么到底为什么还忍受如此惨淡的日子呢?当然,只要投降单于就会受到重用,但李陵从一开始就知道,苏武不是那样的人。李陵感到奇怪的是,为什么他还没有早早自杀呢?
李陵自身が希望のない生活を自らの手で断ち切りえないのは、いつのまにかこの地に根を下して了った数々の恩愛や義理のためであり、またいまさら死んでも格別漢のために義を立てることにもならないからである。蘇武の場合は違う。彼にはこの地での係累もない。漢朝に対する忠信という点から考えるなら、いつまでも節旄を持して曠野に飢えるのと、ただちに節旄を焼いてのち自ら首刎ねるのとの間に、別に差異はなさそうに思われる。はじめ捕えられたとき、いきなり自分の胸を刺した蘇武に、今となって急に死を恐れる心が萌したとは考えられない。
李陵自己做不到亲手斩断眼下没有希望的生活,是因为不知不觉中已经在这片土地扎下根的种种恩爱和情义,另外也因为现在就算自杀也算不上是为汉朝尽忠。但苏武的情况不一样。他在这片土地上没有任何牵挂。从对汉朝的忠义来讲,手持节杖常年在旷野上挨饿和马上烧掉节杖自刎之间并没有什么区别。当初被捕时能一下子刺穿胸膛的苏武不可能到现在又忽然变得怕死起来。
李陵は、若いころの蘇武の片意地を――滑稽なくらい強情な痩我慢を思出した。単于は栄華を餌に極度の困窮の中から蘇武を釣ろうと試みる。餌につられるのはもとより、苦難に堪ええずして自ら殺すこともまた、単于に(あるいはそれによって象徴される運命に)負けることになる。蘇武はそう考えているのではなかろうか。運命と意地の張合いをしているような蘇武の姿が、しかし、李陵には滑稽や笑止には見えなかった。想像を絶した困苦・欠乏・酷寒・孤独を、(しかもこれから死に至るまでの長い間を)平然と笑殺していかせるものが、意地だとすれば、この意地こそは誠に凄じくも壮大なものと言わねばならぬ。
李陵想起了苏武年轻时的顽固——那种近乎滑稽的倔强和不服输。单于以荣华富贵作诱饵想让困穷潦倒的苏武上钩,吞掉诱饵当然是输;就算耐不住苦难自杀也等于输给了单于或由他象征的命运。苏武难道不是这样想的吗?但是在李陵眼里,和命运比拼顽固的苏武并不显得滑稽或可笑。能若无其事地嘲笑超乎人们想象的困苦、贫乏、酷寒、孤独(并且是从现在到死去的漫长岁月),如果这是顽固,那么这个顽固必须说是壮大凄厉的。
昔の多少は大人げなく見えた蘇武の痩我慢、かかる大我慢にまで成長しているのを見て李陵は驚嘆した。しかもこの男は自分の行ないが漢にまで知られることを予期していない。自分がふたたび漢に迎えられることはもとより、自分がかかる無人の地で困苦と戦いつつあることを漢はおろか匈奴の単于にさえ伝えてくれる人間の出て来ることをも期待していなかった。誰にもみとられずに独り死んでいくに違いないその最後の日に、自ら顧みて最後まで運命を笑殺しえたことに満足して死んでいこうというのだ。誰一人己が事蹟を知ってくれなくともさしつかえないというのである。
看到苏武从前多少有些孩子气的顽固竟成长为如此壮大的顽固,李陵不由得惊叹了。而且这个人根本没有期待自己的行为能被汉朝知道。不要说被再次迎回汉朝了,他甚至根本不期待有人能把自己在这无人之地与苦难所作的搏斗传回汉朝,或至少传给匈奴的单于。毫无疑问,他将在不被任何人知道而独自死去的那一天,回顾一生,知道自己直到最后都做到了将命运付之一笑而满足地死去。即使没有一个人知道自己做了些什么,也无足挂怀。
李陵は、かつて先代単于の首を狙いながら、その目的を果たすとも、自分がそれをもって匈土の地を脱走しえなければ、せっかくの行為が空しく、漢にまで聞こえないであろうことを恐れて、ついに決行の機を見出しえなかった。人に知られざることを憂えぬ蘇武を前にして、彼はひそかに冷汗の出る思いであった。
李陵以前曾经想斩获上一代单于的首级,但由于担心即便目的达成,如果不能带着首级逃离匈奴土地的话,空有壮举无法传回汉朝,因而拖延不下,最终也未能找到动手的时机。在不惧怕为人所不知的苏武面前,他不由得出了一身冷汗。
最初の感動が過ぎ、二日三日とたつうちに、李陵の中にやはり一種のこだわりができてくるのをどうすることもできなかった。何を語るにつけても、己の過去と蘇武のそれとの対比がいちいちひっかかってくる。蘇武は義人、自分は売国奴と、それほどハッキリ考えはしないけれども、森と野と水との沈黙によって多年の間鍛え上げられた蘇武の厳しさの前には己の行為に対する唯一の弁明であった今までのわが苦悩のごときは一溜りもなく圧倒されるのを感じないわけにいかない。
最初的感动过后,随着时间流逝,李陵心中还是不由自主地产生了一个心结。不管谈论什么,自己的过去和苏武的过去之间的对比都会一一涌上心头。苏武是义人、自己是卖国奴,这么鲜明的想法倒是没有,但是面对着在森林、原野和湖水的静默中多年锻造而成的苏武的威严,他不能不感到对自己行为唯一的辩解,也就是自己的痛苦,被不堪一击地压倒了。
それに、気のせいか、日にちが立つにつれ、蘇武の己に対する態度の中に、何か富者が貧者に対するときのような――己の優越を知ったうえで相手に寛大であろうとする者の態度を感じはじめた。どことハッキリはいえないが、どうかした拍子にひょいとそういうものの感じられることがある。繿縷をまとうた蘇武の目の中に、ときとして浮かぶかすかな憐愍の色を、豪奢な貂裘をまとうた右校王李陵はなによりも恐れた。
此外,不知是不是错觉,随着时间一天天过去,他从苏武对待自己的态度中开始感到一种富人对穷人似的——一种明知自己优越而尽量对对方宽大的态度。说不清到底是在什么地方,但在某些不经意的时刻,他会忽然感到那种东西。满身褴褛的苏武眼睛里时而流露的怜悯之色,令身裹豪华貂裘的右校王李陵比什么都感到害怕。
十日ばかり滞在したのち、李陵は旧友に別れて、悄然と南へ去った。食糧衣服の類は充分に森の丸木小舎に残してきた。
滞留十余天后,李陵告别旧友,悄然南归了。在小木屋里留下了充足的粮食和衣物。
李陵は単于からの依嘱たる降服勧告についてはとうとう口を切らなかった。蘇武の答えは問うまでもなく明らかであるものを、何もいまさらそんな勧告によって蘇武をも自分をも辱めるには当たらないと思ったからである。
单于嘱托的劝降到底没有说出口。苏武的回答不用问就已经清清楚楚了。事到如今,再作那种劝告,只能是对苏武和对自己的羞辱。
南に帰ってからも、蘇武の存在は一日も彼の頭から去らなかった。離れて考えるとき、蘇武の姿はかえっていっそうきびしく彼の前に聳えているように思われる。
回到南边后,苏武的存在一天也没有离开过他的脑海。分开后再回想起来,苏武的身影反而越发严厉地耸立在他面前。
李陵自身、匈奴への降服という己の行為をよしとしているわけではないが、自分の故国につくした跡と、それに対して故国の己に酬いたところとを考えるなら、いかに無情な批判者といえども、なお、その「やむを得なかった」ことを認めるだろうとは信じていた。ところが、ここに一人の男があって、いかに「やむを得ない」と思われる事情を前にしても、断じて、自らにそれは「やむを得ぬのだ」という考えかたを許そうとしないのである。
李陵自己虽然不认为投降匈奴的行为是善,但他相信在自己对故国的尽忠和故国对自己的回报面前,再无情的批判者都会承认他的 “无可奈何”。但是在这里却有一人,无论面对再怎么 “无可奈何” 的境况,都断然不允许自己朝“无可奈何”的方向去想。
飢餓も寒苦も孤独の苦しみも、祖国の冷淡も、己の苦節がついに何人にも知られないだろうというほとんど確定的な事実も、この男にとって、平生の節義を改めなければならぬほどのやむを得ぬ事情ではないのだ。
饥寒交迫也好,孤独寂寞也好,故国的冷淡也好,自己的苦节最终不会被任何人知道这一近乎确定的事实也好,对于这个人,都不足以成为令他改变平生节义的 “无可奈何”。
蘇武の存在は彼にとって、崇高な訓誡でもあり、いらだたしい悪夢でもあった。ときどき彼は人を遣わして蘇武の安否を問わせ、食品、牛羊、絨氈を贈った。蘇武をみたい気持と避けたい気持とが彼の中で常に闘っていた。
苏武的存在对他既是崇高的训诫,也是令人不安的噩梦。他时常遣人看望苏武安否,送去食品、牛羊和绒毡。想见到苏武的心情和怕见到苏武的心情时常在他内心交战不已。
数年後、今一度李陵は北海のほとりの丸木小舎を訪ねた。そのとき途中で雲中の北方を戍る衛兵らに会い、彼らの口から、近ごろ漢の辺境では太守以下吏民が皆白服をつけていることを聞いた。人民がことごとく服を白くしているとあれば天子の喪に相違ない。李陵は武帝の崩じたのを知った。
几年后,李陵又一次访问了北海边上的小木屋。途中遇到戍守云中北部的卫兵,从他们口中得知,近来在汉朝边境上从太守到平民人人身着白衣。人民服色皆白,则必是天子之丧无疑。李陵知道,是武帝驾崩了。
北海の滸に到ってこのことを告げたとき、蘇武は南に向かって号哭した。慟哭数日、ついに血を嘔くに至った。その有様を見ながら、李陵はしだいに暗く沈んだ気持になっていった。彼はもちろん蘇武の慟哭の真摯さを疑うものではない。その純粋な烈しい悲嘆には心を動かされずにはいられない。だが、自分には今一滴の涙も泛んでこないのである。蘇武は、李陵のように一族を戮せられることこそなかったが、それでも彼の兄は天子の行列にさいしてちょっとした交通事故を起こしたために、また、彼の弟はある犯罪者を捕ええなかったことのために、ともに責を負うて自殺させられている。どう考えても漢の朝ちょうから厚遇されていたとは称しがたいのである。それを知ってのうえで、今目の前に蘇武の純粋な痛哭を見ているうちに、以前にはただ蘇武の強烈な意地とのみ見えたものの底に、実は、譬えようもなく清洌な純粋な漢の国土への愛情(それは義とか節とかいう外から押しつけられたものではなく、抑えようとして抑えられぬ、こんこんと常に湧出る最も親身な自然な愛情)が湛えられていることを、李陵ははじめて発見した。
来到北海之滨告知此事后,苏武面朝南方号哭了起来。恸哭数日,竟至于呕血。看到这幅情景,李陵的心情逐渐暗淡下来。他当然不怀疑苏武的恸哭是真诚的,也不能不被那纯粹热烈的悲伤打动。但是,自己如今连一滴眼泪也流不出来。苏武虽然不象李陵那样全族被诛,但他的兄长因为在天子巡幸时出了点差错、弟弟因为没能抓住某个罪犯都被责令引咎自杀,无论如何也不能说是被汉朝厚待过的。深知这些的李陵,看着眼前苏武纯粹的恸哭,第一次发现:他以前只看成是苏武的顽固的地方,事实上在更深处,是一股对汉朝国土难以形容的清冽纯粹的热爱之情(不是 “节”、“义” 之类从外部规定的东西,而是最自然、最切身、无法遏制地喷涌而出的热爱)在涓涓流淌。
李陵は己と友とを隔てる根本的なものにぶつかっていやでも己自身に対する暗い懐疑に追いやられざるをえないのである。
李陵头一次撞上了拦在自己和故友之间最根本的隔阂,不由得陷入了对自己阴暗的怀疑中。
蘇武の所から南へ帰って来ると、ちょうど、漢からの使者が到着したところであった。武帝の死と昭帝の即位とを報じてかたがた当分の友好関係を――常に一年とは続いたことのない友好関係だったが――結ぶための平和の使節である。その使いとしてやって来たのが、はからずも李陵の故人とも・隴西の任立政ら三人であった。
从苏武那里南归后,正好赶上汉朝派来了使者。这次是为了报告武帝驾崩和昭帝即位的消息,并顺便缔结友好关系——通常持续不到一年——的和平使节。来的不料竟是李陵的旧友陇西任立政等三人。
その年の二月武帝が崩じて、僅か八歳の太子弗陵が位を嗣ぐや、遺詔によって侍中奉車都尉霍光が大司馬大将軍として政を輔けることになった。霍光はもと、李陵と親しかったし、左将軍となった上官桀もまた陵の故人であった。この二人の間に陵を呼返そうとの相談ができ上がったのである。今度の使いにわざわざ陵の昔の友人が選ばれたのはそのためであった。
这一年二月武帝驾崩,年仅八岁的太子弗陵继位,根据遗诏,侍中奉车都尉霍光担任了大司马大将军,辅佐朝政。霍光与李陵本是好友,此次当上左将军的上官桀也是李陵的故人。这两人商量着要将李陵召回,因此特意选派了李陵的故人作使者。
単于の前で使者の表向きの用が済むと、盛んな酒宴が張られる。いつもは衛律がそうした場合の接待役を引受けるのだが、今度は李陵の友人が来た場合とて彼も引張り出されて宴につらなった。任立政は陵を見たが、匈奴の大官連の並んでいる前で、漢に帰れとは言えない。席を隔てて李陵を見ては目配せをし、しばしば己の刀環を撫なでて暗にその意を伝えようとした。陵はそれを見た。先方の伝えんとするところもほぼ察した。しかし、いかなるしぐさをもって応えるべきかを知らない。
在单于面前履行了使者表面上的任务后,摆开了盛大的酒宴。平时每逢这种场合总是由卫律接待,这次因为来的是李陵的朋友,所以他也被拉到了酒宴上。任立政虽然看到了李陵,但在匈奴高官环坐之下,无法说出要陵归汉的事。他隔着座位屡次对李陵递眼色,并一再抚摸自己的刀环暗中示意。李陵看到了这些,也略有察觉对方的意思,但是却不知该如何应对。
公式の宴が終わった後で、李陵・衛律らばかりが残って牛酒と博戯32とをもって漢使をもてなした。そのとき任立政が陵に向かって言う。漢ではいまや大赦令が降り万民は太平の仁政を楽しんでいる。新帝はいまだ幼少のこととて君が故旧33たる霍子孟・上官少叔が主上を輔けて天下の事を用いることとなったと。立政は、衛律をもって完全に胡人になり切ったものと見做して――事実それに違いなかったが――その前では明らさまに陵に説くのを憚った。ただ霍光と上官桀との名を挙あげて陵の心を惹こうとしたのである。
正式宴会结束后,只留下李陵、卫律等人接着用牛酒和博戏款待汉使。这时任立政对李陵说道:“如今汉朝降下大赦,万民共享太平仁政。新帝尚年幼,君之故旧霍子孟、上官少叔辅佐圣上治理天下。” 任立政看出卫律已彻底成了胡人——事实也的确如此——因此在他面前没有明确劝说李陵,只略举霍光和上官桀的名字以动李陵之心。
陵は黙して答えない。しばらく立政を熟視してから、己が髪を撫なでた。その髪も椎結とてすでに中国のふうではない。ややあって衛律が服を更えるために座を退いた。初めて隔てのない調子で立政が陵の字を呼んだ。少卿よ、多年の苦しみはいかばかりだったか。霍子孟と上官少叔からよろしくとのことであったと。
李陵默不作答,注视了立政一会儿后,伸手抚摸了一下自己的头发。那里束发的椎结已经不是汉风的了。片刻后卫律离席更衣,立政这才用谙熟的语调叫了李陵的字,道:“少卿呵,这么多年辛苦了。霍子孟与上官少叔向你问好呢。”
その二人の安否を問返す陵のよそよそしい言葉におっかぶせるようにして立政がふたたび言った。少卿よ、帰ってくれ。富貴などは言うに足りぬではないか。どうか何もいわずに帰ってくれ。蘇武の所から戻ったばかりのこととて李陵も友の切なる言葉に心が動かぬではない。しかし、考えてみるまでもなく、それはもはやどうにもならぬことであった。「帰るのは易い。だが、また辱しめを見るだけのことではないか? 如何?」言葉半ばにして衛律が座に還ってきた。二人は口を噤んだ。
李陵回问二人的语调极其冷淡。立政紧接着又说:“少卿呵,回来吧。富贵安足道。什么也不要说了,回来吧。” 刚从苏武那里回来的李陵不是没有被友人恳切的话语打动,但是,不用想,那已经是不可能的事了。“回去不难。可还不是徒然受辱吗?如何?” 话到一半,卫律归座了。俩人都止住了口。
会が散じて別れ去るとき、任立政はさりげなく陵のそばに寄ると、低声で、ついに帰るに意なきやを今一度尋ねた。陵は頭を横にふった。丈夫ふたたび辱めらるるあたわずと答えた。その言葉がひどく元気のなかったのは、衛律に聞こえることを惧れたためではない。
宴终人散时,任立政不动声色地走到李陵身旁,再次低声询问是否真的没有归意。李陵摇了摇头,答道:“丈夫受辱不可再。” 声音低微无力,那应该不只是为了怕卫律听见的缘故。
後五年、昭帝の始元六年の夏、このまま人に知られず北方に窮死すると思われた蘇武が偶然にも漢に帰れることになった。漢の天子が上林苑中で得た雁の足に蘇武の帛書がついていた云々というあの有名な話は、もちろん、蘇武の死を主張する単于を説破するためのでたらめである。十九年前蘇武に従って胡地に来た常恵という者が漢使に遭って蘇武の生存を知らせ、この嘘をもって武を救出すように教えたのであった。さっそく北海の上に使いが飛び、蘇武は単于の庭ていにつれ出された。
五年后,昭帝始元六年夏,原以为会就此默默无闻困死在北方的苏武意外得到了回归汉朝的机会。汉天子在上林苑中猎得大雁、雁足上系有苏武锦书的有名故事,当然不过是为了驳斥谎称苏武已死的单于而编出来的计策。十九年前随苏武来到胡地的常惠某次见到了汉使,告知了苏武尚在的消息,并教会了用这个谎话救出苏武的办法。马上有使者飞抵北海,苏武被带到了单于廷前。
李陵の心はさすがに動揺した。ふたたび漢に戻れようと戻れまいと蘇武の偉大さに変わりはなく、したがって陵の心の笞たるに変わりはないに違いないが、しかし、天はやっぱり見ていたのだという考えが李陵をいたく打った。見ていないようでいて、やっぱり天は見ている。彼は粛然として懼れた。今でも、己の過去をけっして非なりとは思わないけれども、なおここに蘇武という男があって、無理ではなかったはずの己の過去をも恥ずかしく思わせることを堂々とやってのけ、しかも、その跡が今や天下に顕彰されることになったという事実は、なんとしても李陵にはこたえた。胸をかきむしられるような女々しい己の気持が羨望ではないかと、李陵は極度に惧おそれた。
李陵的心被深深震动了。当然,无论能否回到汉朝,苏武的伟大都是不变的,同样李陵内心的鞭笞也是不变的;但是这一次,上天还是在看着的想法深刻打动了他。似乎什么都没看见的上天,事实上还是在看着的。这不禁令他肃然生畏。至今他也不以自己的过去为非,但是在这里有一个叫苏武的男儿,堂堂做到了令自己本来无可非议的过去都变成是一种耻辱的事,并且如今其行迹正得以彰显天下。这一事实比什么都震动了李陵。自己这种心乱如麻的女人似的情绪难道不是羡慕吗?李陵感到了极度的恐惧。
別れに臨んで李陵は友のために宴を張った。いいたいことは山ほどあった。しかし結局それは、胡に降ったときの己の志が那辺にあったかということ。その志を行なう前に故国の一族が戮せられて、もはや帰るに由なくなった事情とに尽きる。それを言えば愚痴になってしまう。彼は一言もそれについてはいわなかった。ただ、宴酣にして堪えかねて立上がり、舞いかつ歌うた。
临别之际,李陵为旧友摆下宴席。想说的话堆积如山,但不外乎自己降胡时所抱的志向,以及志向实现之前故国的全族先已被戮,令自己欲归无由的过往而已。这些话如果说出来也就只是牢骚罢了。他终于对这些一字未提。只在宴酣时按捺不住地站起,且舞且唱道——
径万里兮度沙幕
為君将兮奮匈奴
路窮絶兮矢刃摧
士衆滅兮名已隤
老母已死雖欲報恩将安帰
歌っているうちに、声が顫え涙が頬を伝わった。女々しいぞと自ら叱りながら、どうしようもなかった。
一边唱,一边声音颤抖,泪流满颊。他极力斥责自己不要作女儿态,可是毫无办法。
蘇武は十九年ぶりで祖国に帰って行った。
苏武时隔十九年回到了祖国。
司馬遷はその後も孜々として書き続けた。
司马迁一直在孜孜不倦地写着。
この世に生きることをやめた彼は書中の人物としてのみ活きていた。現実の生活ではふたたび開かれることのなくなった彼の口が、魯仲連の舌端を借りてはじめて烈々と火を噴くのである。あるいは伍子胥となって己が眼を抉らしめ、あるいは藺相如となって秦王を叱し、あるいは太子丹となって泣いて荊軻を送った。楚の屈原の憂憤を叙して、そのまさに汨羅に身を投ぜんとして作るところの懐沙之賦を長々と引用したとき、司馬遷にはその賦がどうしても己自身の作品のごとき気がしてしかたがなかった。
放弃了在这个世上的生之后的他只是作为书中人物才活着。他在现实生活中再没有张开过的嘴,唯有借着鲁仲连的舌端才喷出熊熊烈火。他时而化作伍子胥抉去自己双目,时而化作蔺相如痛斥秦王,时而化作太子丹含泪送别荆轲。在记叙楚大夫屈原的忧愤,长长地引用他投身汨罗时所作的怀沙赋时,司马迁无可遏制地感到那篇赋正像是自己的作品。
稿を起こしてから十四年、腐刑の禍に遭ってから八年。都では巫の獄34が起こり戻太子の悲劇が行なわれていたころ、父子相伝のこの著述がだいたい最初の構想どおりの通史がひととおりでき上がった。これに増補改刪推敲を加えているうちにまた数年がたった。史記百三十巻、五十二万六千五百字が完成したのは、すでに武帝の崩御に近いころであった。
起稿后十四年,距腐刑之祸八年。京城兴起巫蛊之狱并发生戾太子的惨剧时,这部父子相传的大作按当初所构想的通史大体成书了。在增补删改和推敲中又经过数年。《史记》一百三十卷,五十二万六千五百字全部完成时,已经接近武帝驾崩的时候了。
列伝第七十太史公自序の最後の筆を擱いたとき、司馬遷は几に凭ったまま惘然とした。深い溜息が腹の底から出た。目は庭前の槐樹の茂みに向かってしばらくはいたが、実は何ものをも見ていなかった。うつろな耳で、それでも彼は庭のどこからか聞こえてくる一匹の蝉の声に耳をすましているようにみえた。歓びがあるはずなのに気の抜けた漠然とした寂しさ、不安のほうが先に来た。
写下列传第七十《太史公自序》的最后一笔,司马迁凭几惘然。从心底传来一声深深的叹息。眼睛虽然注视着庭前槐树的绿荫,但他什么都没有看到。空洞的耳朵似乎在捕捉从院子里某个角落传来的一只蝉的鸣声。按说应该感到欢乐,可他却首先感到了丧失了全部力气似的朦胧的寂寞与不安。
完成した著作を官に納め、父の墓前にその報告をするまではそれでもまだ気が張っていたが、それらが終わると急に酷い虚脱の状態が来た。憑依の去った巫者のように、身も心もぐったりとくずおれ、まだ六十を出たばかりの彼が急に十年も年をとったように耄けた。武帝の崩御も昭帝の即位もかつてのさきの太史令司馬遷の脱殻にとってはもはやなんの意味ももたないように見えた。
将完成的著作纳官,到父亲的墓前祭告,做这些事时他还勉强提着劲头,可等到这些都结束之后,他突然陷入了严重的虚脱状态。就好像附体的神灵离去之后的巫者一样,身体和内心一下子变得空空荡荡,刚过六十岁的他转眼间仿佛老了十年。武帝的驾崩也好,昭帝的即位也好,对于从前的太史令司马迁的躯壳似乎不再具有任何意义。
前に述べた任立政らが胡地に李陵を訪ねて、ふたたび都に戻って来たころは、司馬遷はすでにこの世に亡かった。
前面提到的任立政等人在胡地访过李陵,再回到京城时,司马迁已经不在人世了。
蘇武と別れた後の李陵については、何一つ正確な記録は残されていない。元平元年に胡地で死んだということのほかは。
关于和苏武辞别后的李陵,没有留下任何准确的记载。除了元平元年死于胡地之外。
すでに早く、彼と親しかった狐鹿姑単于は死に、その子壺衍鞮単于の代となっていたが、その即位にからんで左賢王、右谷蠡王の内紛があり、閼氏や衛律らと対抗して李陵も心ならずも、その紛争にまきこまれたろうことは想像に難くない。
那时和他亲近的狐鹿姑单于早已去世,到了其子壶衍鞮单于的时代。不难想象,在围绕新单于即位发生的左贤王与右谷蠡王的内乱中,与大閼氏、卫律等人不和的李陵或许也身不由己地被卷了进去。
漢書の匈奴伝には、その後、李陵の胡地で儲けた子が烏籍都尉を立てて単于とし、呼韓邪単于に対抗してついに失敗した旨が記されている。宣帝の五鳳二年のことだから、李陵が死んでからちょうど十八年めにあたる。李陵の子とあるだけで、名前は記されていない。
据《汉书・匈奴传》记载,李陵在胡地所生的儿子后来拥立乌籍都尉为单于,与呼韩邪单于对抗而遭至失败。那是宣帝五凤二年的事,在李陵死后十八年。记载中只说是李陵的儿子,没有留下名字。
Footnotes
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天漢: 汉武帝刘彻的第八个年号 (前100年 - 前97年) ↩
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磽确:[名・形動]地味がやせていて、小石などが多いさま ↩
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浚稽山: 约在今蒙古国土拉河,国境内戈壁阿尔泰山脉中段 ↩
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輜重:[名]戦地で必要な糧食・衣類・武器などの軍需品。また、それを運ぶ道具や人 ↩
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勒する:[動サ変]ととのえる。統御する ↩
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屯:[名]軍兵の群れ ↩
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座する:[動サ変]事件などのかかわりあいになる。巻き添えを食う ↩
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竜勒水: 党河,中国内陆河疏勒河的支流。古名氐置水,亦称龙勒水 ↩
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受降城: 汉朝时为外长城进攻系统的一部分,初以接受匈奴贵族投降而建,至唐朝时因后突厥汉国的兴起,成为黄河外侧驻防城群体 ↩
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浮き足立つ:[動タ五(四)]不安や恐れで落ち着きを失う。逃げ腰になる ↩
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蒙る:[動ラ五(四)]災いなどを身に受ける ↩
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輦:[名]人の引く車 ↩
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遮二無二:[副]ほかの事を考えないで、ただひたすらに ↩
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あわよくば:[連]運がよければ ↩
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刺違える:[動ア下一]互いに刃物で刺し合う ↩
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十重二十重:[名]幾重にも重なること ↩
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成行:[名]物事のなりゆく過程や結果 ↩
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方士:[名]中国古代の方術を行なった人 ↩
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巫覡:[名]神に仕えて、祈祷や神おろしをする人 ↩
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恬:[形動タリ]気にかけないで平然としているさま ↩
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在来:[名]これまであったことや、行われていたこと ↩
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なかんずく:[副]その中でとりわけ ↩
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学殖:[名]学問によって身につけた知識 ↩
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罷り間違う:[動ワ五(ハ四)]「間違う」を強めていう語。ふつう、仮定の形で、万が一間違うと大変なことになるという気持ちでいう ↩
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羹:[名]野菜や魚肉を熱く煮た吸い物 ↩
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余吾水: 蒙古国境内的土拉河,为鄂尔浑河支流 ↩
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廉:[名]ある事柄の原因・理由となる点 ↩
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甘泉宮:甘泉宫位于关中的北部山系中,由林光宫秦二世建造,是汉武帝经秦林光宫改建而成的宫殿 ↩
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同じゅうする:[連]…が同じである ↩
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姑且水:今蒙古国西南巴彦洪戈尔省图音河 ↩
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移中厩監:西汉时期设置的宫廷职官,主管栘园中的皇家马厩 “栘中厩” 事务 ↩
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博戯:[名]賭けを伴う勝負事 ↩
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故旧:[名]古くからの知りあい ↩
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巫の獄:征和二年 (公元前91年),丞相公孙贺之子公孙敬声被人告发为巫蛊咒武帝,武帝宠臣江充奉命查巫蛊案,用酷刑和栽赃迫使人认罪,大臣百姓惊恐之下胡乱指认他人犯罪,数万人因此而死 ↩